幾度も上表を行って利益をもたらすこと五百以上に及んだが、草稿は全て破り捨てて外に広めなかった。仁愛と慎み深さに優れ、忠勤を尽くし、多くの人々が付き従った。 魏の高官華?は、「数々の戦功を挙げながらいずれも同僚の手柄とし、自らの戦功を論じることがなかったため、恨みや禍とは無縁だった」との称賛を送った。『後漢書』の編者范曄は、皇甫嵩の功を称えつつも、「大業を棄て小義にこだわったことで、智者の笑うところとなった」とも評した。唐代には史館によって『武廟六十四将』に選出されている。 曾祖父の皇甫?は度遼将軍、祖父の皇甫旗は扶風都尉、父の皇甫節は雁門太守を務めた。叔父の皇甫規
評論
一族
息子の皇甫堅寿は侍中に任じられたが、就任しなかった。曾孫の皇甫謐が西晋の時代に学者として名を馳せ、その父の皇甫叔侯、祖父の皇甫叔献(皇甫嵩の子)の名も『晋書』にて伝わる。また、娘は皇甫嵩に才能を評価された射援の妻となった[3]。 小説『三国志演義』では、朱儁と共に張梁・張宝と対戦しており、草原にまで追い立て、火攻めを朱儁に提案して実行し、大破している。参陣した劉備に、張角と対陣している盧植の加勢に向かうように命令するが、盧植は賄賂を断ったため讒言により逮捕されており、董卓が後任となっていた。 皇甫嵩は曹操を従えて張梁と戦い、大勝利を収めたため、負け続けの董卓は更迭され、その後任となる。着任時に張角は死んでいたが、全軍を率いた張梁と対戦し、続けざまに七戦七勝して張梁を斬殺し、更に張角の棺を暴いて屍を切り刻み、その首を都に届けた。生き残った賊兵は全て降伏し、皇甫嵩は車騎将軍の官号を加えられ、冀州牧に任命される。その時、皇甫嵩は「盧植は功績はあっても罪はない」と上奏したため、盧植は元の官に復帰することができた。 黄巾討伐後、皇甫嵩は十常侍への賄賂を拒んだため、朱儁と共に罷免されている。 後年、王允の命令で李粛・呂布とともに?塢に向かい、董卓の一族を皆殺しにしたのを最後に物語から退場する。
三国志演義
出典
范曄『後漢書』巻71 皇甫嵩伝(中国語版ウィキソース)
脚注^ 『後漢書』献帝紀
^ 『後漢書』皇甫規伝
^ 陳寿『三国志』蜀書 先主伝注『三輔決録注』