皇帝
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「女帝」は女性の皇帝・帝王・天皇、女王などの君主を指す[38]。皇帝、天皇の配偶者は「皇后[39]、「皇妃」[40]

なお「諸王の王」(king of kings)や皇帝(emperor)は、唯一神ヤハウェイエス=キリストアッラーフ)をも意味し[1][41]、一神教で唯一神は皇帝、「唯一の皇帝 (sole emperor)」、「真の皇帝 (true emperor)」等と見なされている[8][42]

皇帝の称号は皇帝権から派生して、その模倣や僭称としても使用されるようになった[7]
東アジアの皇帝
中国の皇帝「皇帝 (中国)」および「天子」も参照はじめて「皇帝」を名乗った始皇帝

東アジアにおいて「皇帝」号を最初に使用したのは、中華圏における国家であるであり、その後も20世紀に至るまで多くの王朝の君主が皇帝を称した。皇帝は中華歴史・思想と密接に関係している。
「皇」と「帝」と「王」

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「皇」という漢字は、「自」(はじめ)と「王」の合字であり、伝説的な人類最初の王を意味している[要出典]。中国の伝説で最初に中国(したがって天下)を支配したのは、三皇であるとされている。

その次に続くとされたのが、などを含む五帝であるとされている。「帝」という漢字は、元来、3本の線を中央で束ねるという意味(現代ではこの意味で用いる時は、糸偏をつけた「締」と表記する)だが、宇宙の全てを束ねる至上神という意味で代に用いられるようになった。三皇と五帝は神格化された存在であると同時に、現世の支配者であると考えられていた[43]王は、祖先や山河などを神として崇めていたが、より上位の神を崇めることが生まれ、「帝」あるいは「上帝」と呼んだ。殷末期の王に対しては帝乙帝辛(紂王)など帝の字が用いられるようになった[44]

五帝のあとに続くのが「王」が支配する[注 4]の王朝であった。

周王は地上世界(すなわち天下)を治めるべく天命を受けた天子とされた。周の封建制の下で諸侯は領地()を治め、最高位の爵位は「」が与えられた。しかし、周王朝が衰えると、南方のが、自国の君主の称号として「王」を使うようになり、戦国時代に入ると、他のかつて周王朝に従っていた諸侯も「王」の称号を使うようになったとされる[45]。しかし金文史料では西周時代から?王・豊王・?王など、周王以外にも王を称する存在があったことが確認されている[46]

紀元前323年には周王が天子であると宣言され、他の王に優越する存在であると確認され、実質的な最有力者であった威王は「覇王」を称した[47]紀元前288年には昭襄王?王に対し、他の王を従えていることから互いに「帝」と称するよう呼びかけ、一時的に「帝」が使用されることもあった[44]

「王」以前の君主の称号として、「后」というものがあったということが考古学的発見や文献学的研究からわかっている。王が君主号として用いられて以降は、后は君主に準ずる存在に対する称号となった。君主の妃や母親は君主に準ずる存在とみなされ、「皇后」は皇帝の妃、「皇太后」は皇帝の母親を意味することとなり、「后」は原義を離れて「きさき」の意味で固定化された[要出典]。
「皇帝」の登場

紀元前221年、秦が中国の統一王朝となり、王であった?政は重臣らに「其れ帝号を議せ」と命じた[48]。王を超える帝号は、当時の法家の間では広く求められており、『韓非子』では「五帝を越え三皇に等しい」存在の出現が待ち望まれており、丞相李斯韓非と同門であり、?政も韓非の著作に傾倒した時期がある[49]。重臣らは秦王の業績がかつての五帝をも上回る存在であるとして三皇に並ぶ存在としての「秦皇」の称号を提案した[48]。しかしこれは受け入れられず、?政は「秦」の字を取って「帝」の字をつける「皇帝」という称号を自ら考案した[48]浅野裕一は?政の意図が「帝」の中の筆頭的な存在としての帝王号であったのに対し、重臣が「皇」扱いしたことを引き戻すためであったとしている[48]。こうして「皇帝」の称号を名乗った?政は、最初の皇帝として『始皇帝』の名で呼ばれる。

秦において「皇帝」が五帝を超える存在であるとされたことには、五帝や王たちが封建制を廃せなかったのに対し、秦では郡県制を敷くことができたからとされている[49]


」という言葉はもともと広く自称の言葉として使われていたが、始皇帝は「朕」を皇帝専用の自称とした[50]。他にも「制」・「」などの皇帝専用語も策定した。
皇帝の定着

始皇帝は自身から始めて二世皇帝、三世皇帝と続かせる意図であったが、反乱が相次いだため、秦の皇帝は2代15年で終わった[51]。始皇帝から数えて3代目の?子嬰は、始皇帝死後の反乱によって中国全土を支配することができなかったため、単に「王」と称した。秦末・楚漢戦争期の群雄の多くは各地で「王」を称した。戦国時代の楚王の末裔である懐王は、諸王の盟主として扱われ、秦の滅亡後は「義帝」と呼ばれた[52][注 5]。一方で最大の実力者であった項羽は「西楚の覇王」を称したとされる。

紀元前202年、楚漢戦争で項羽を倒した漢王劉邦は、配下の諸王から「皇帝」を称するよう献言された。劉邦は「帝は賢者の称号である」として再三辞退する動きを見せた後、の「皇帝」に即位した[53]。ただし漢においては諸侯王を各地に封じる封建制が採用され、五帝を超える存在としての皇帝号としては扱われなかった[53]浅野裕一は、漢の皇帝が三皇五帝を始めとする帝王を超越した存在ではなく、継承者として扱われていたとしている[54]。さらに劉邦は、一族や功臣を「王」として各地に封じた。これにより、皇帝が王を封じるという図式が成立した。また、「帝」は「皇帝」の略として広く使われるようになった。以後、歴代の中国の支配者は「皇帝」を名乗るようになった。

戦国時代中期以降から天の代理人である「天子」は諸侯を率いる存在であるとされ[47]、秦時代には余り用いられなかったが漢代に至って盛んに使用されるようになった[55]文帝天人相関説を強調することで、皇帝が天からの代理人であり、「天子」であることを強調した[56]中華思想においては近代的な国境という概念はなく、周辺諸国の君主も「天子」である皇帝に従うべき存在であるとされた。周辺諸国との交流は、周辺諸国の君主が皇帝の徳を慕って使節を送り、皇帝がそれを認めてその君主を王として冊封するという形をとった。したがって皇帝の支配する国という意味での「帝国」という概念は存在しなかった。

代には、高宗が皇后武則天の影響で「天皇大帝」という別称を採用した時期もあったが、皇帝号は最後の王朝であるまで使用され続けた。
皇帝の並立

三国時代、中原を支配したのみならず、の君主もそれぞれ皇帝を称し、五胡十六国時代五代十国時代など中央の王朝の力が弱まった時代には、周辺の勢力の君主も皇帝を名乗るようになった。


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