一神教では唯一神が「唯一の皇帝」[8]、「王の中の王」[100]、「全人類の皇帝」等とされている[10]。『旧約聖書』(ユダヤ教聖書)から連なる一神教にとっては、唯一なる神が「宇宙で唯一の正当な王者」であり、人間は神だけを崇拝するべきである[9]。神以外の権力や金銭収集は、神の「排他的絶対性」に背くことであり、偶像崇拝に他ならないと糾弾される[9]。イスラームを例に取れば、神以外への崇拝や商業利益追求は、「偶像崇拝」であり、ジャーヒリーヤ(宗教的な「無知」)である[101]。特に近代のイスラーム主義運動は、「偶像崇拝」やジャーヒリーヤを、無知というより「野蛮」として敵視している[102]。「唯一の皇帝」、「唯一の神」、「皇帝 (像)」、「千年帝国(千年王国)」、「神の王国」、「イスラーム帝国主義」、および「世界イスラーム帝国」も参照 唯一神(=ヤハウェ)は「王の中の王・諸王の王 (king of kings)」と見なされている[100]。これは、ペルシアやゾロアスター教におけるシャー・ハン・シャー(=王の中の王・皇帝)から影響されている[100]。唯一神は「真の皇帝 (the true emperor)」[42]、「天の主 (lord of heaven)」、「天の王 (king of heaven)」とも呼称される[103]。旧約聖書の預言者イザヤに従えば、「王の中の王 (a king of kings)」や「皇帝 (an emperor)」とは唯一神である[104]。カール・F・ヘンリーの研究では、旧約聖書は唯一神を「イスラエルの至高王 (Israel’s superlative king)」かつ「宇宙と歴史の唯一の主権者 (sole sovereign of the universe and of history)」として描いている[105]。 唯一神(イエス・キリスト)は「宇宙の元首 (the head of the universe)」という呼称もされる[106][107]。宗教学では、『ヨハネの黙示録』に関連する「唯一神」と「皇帝」の呼称を、以下の表として比較している[108]。 唯一神(黙示録)皇帝(帝国)
一神教
ユダヤ教
キリスト教全知全能なる「王の中の王」、「皇帝」としての唯一神(イエス・キリスト)。18世紀前半、ロシア聖像博物館。全能なる王の王、皇帝である唯一神の絵画。ギリシャ、1600年頃。玉座に座す唯一神(父なる神)の絵画。15世紀後半ドイツ、ヴェストファーレン。
「主権者なる主 (Sovereign Lord)」 ・ 「唯一神 (God)」「主にして唯一神 (Lord and God)」
「王の中の王・皇帝 (King of Kings)」「皇帝 (Kaiser)」(直接的に該当する同義語の使用例は未発見)
「全能者
このような類似性が存在する『黙示録』では、唯一神は皇帝である、または「唯一神だけが皇帝を超える価値がある (God alone is worthy above the emperor)」、とされている[109]。
『黙示録』は、皇帝(アウグストゥス)の称号としての「神 (god)」、「主 (lord)」、「救世主 (savior)」を否定している[110]。それらの称号は皇帝ではなく、「唯一神のみに属している (belong only to God)」というのが『黙示録』の主張である[110]。
しかし、ここには基本的問題があると見られている[110]。『黙示録』が反帝国主義的であること、「皇帝制 (imperial system)」に反対していることは疑われていないが、これは帝国主義的支配者を唯一神に置き換えているに過ぎないとも言える[110]。スティーブン・ムーアが述べたように「黙示録は、ローマ帝国イデオロギーに向かって熱烈に反抗してはいるが、逆説的にどこまでも、そのイデオロギーの言葉遣いを刻みつけ直している (Revelation, though passionately resistant to Roman imperial ideology, paradoxically and persistently reinscribes its terms.)」[110]。
考古学者の浅野和生は「ローマ帝国がなくては,キリスト教という宗教は絶対に生まれることはなかったに違いない」と記しており、この点については文学博士・哲学研究者の谷口静浩も自著で同意している[111][112]。宗教史学書『諸宗教の歩み:事実と本質のあいだで』の中での谷口いわく、諸民族を超える「唯一の皇帝」というローマ帝国の理念が、諸民族を超える「唯一の神」というキリスト教の教えと融和・協調したことで、キリスト教は「最終的に他の諸宗教にたいして勝利した」[111]。宗教史学博士の山形孝夫によれば[113]、ローマ皇帝(コンスタンティヌス)が主張した世界平和の基盤は.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「唯一の神、唯一の皇帝、唯一の帝国」
だった[114]。同時期のローマ帝国内に存在していたキリスト教は、世界はイエス・キリストにおいて「一つ」に結ばれると考えてきた[114]。それは普遍的に人類を「救済」する単一共同体の概念であり、例えば『新約聖書』には「もしも、イエスと一つになるなら、ユダヤ人もギリシア人もなく、自由人も奴隷もなく、男も女もない」
などと記述されている(『ガラテヤの信徒への手紙』)[115]。
世界史の転換期において、ローマ帝国主義とキリスト教は「一致」していった[114]。もともと皇帝崇拝において「皇帝こそはキリスト〔救い主〕である」とされているのに対し、キリスト教徒は「イエスこそはキリストである」と信仰告白し続け、これがかつてのローマ帝国でキリスト教徒が弾圧された主な原因だった[116]。しかし帝国で寛容令(ミラノ勅令)が313年に布告され、392年にはキリスト教が国教化された[116]。山形によれば、こうしてキリスト教とナショナリズム(国家主義)が深く結びついていったのであり、この結びつきがキリスト教の行く末を「歪めた」ことは歴史的事実だと言う[114]。