皇帝
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ある回答者によると、「ロシア人は彼〔プーチン〕を皇帝として見ている」のであり、ロシア人という本質的な君主主義者らは西側的な民主主義を持てないのだと言う[93][注 11]

ブラックバーンの論文いわくロシアには、想像上の「親プーチン」社会を支えている以下の三本柱があると考えられる[13]
あらゆる権力を大統領の手に『委任する』ことが、国家と社会を規律し形作る最善の方法であるという信念」[13]

「ロシアの『国民性』への否定的な見解に並置される、『本物の男』として入念に製作されたプーチンのイメージの受容」[13]

「『救世主らの政府』が正常性をもたらし、『一度滅びた』国を救済するという親プーチン神話内面化[13]

ここには「内面的なオリエンタリズム」(“internal orientalism”)も関わっている[13]。「東方三博士(the Wise Men of the Orient)」、「救い主(キリスト)」、および「救世主ハリストス大聖堂」も参照
前近代ロシア(モスクワ大公国─ロシア帝国)

15世紀に北東ルーシの統一を進めつつあったモスクワ大公国イヴァン3世は、それまでビザンツ皇帝に対して用いられていた称号「ツァーリ」を自称し始めた。ツァーリとはラテン語のカエサルに由来する。1453年オスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされると、イヴァン3世は東ローマ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪ソフィア・パレオローグ1472年に結婚し、東ローマ帝国の紋章「双頭の鷲」も使い始め、モスクワが東ローマ帝国の後継者であることを位置付けた。

その後、イヴァン3世の孫イヴァン4世は、1547年にツァーリとしての戴冠式を執り行い、「ツァーリ」の称号が正式に用いられ始めた。この頃から、モスクワ大公国はロシア・ツァーリ国という名称を用いるようになった。

ただし、それ以前にルーシの人々は、モンゴル帝国の皇族バトゥが創始したジョチ・ウルス1224年 - 1502年)のハンをも「ツァーリ」と呼んでいた。モスクワ大公の「ツァーリ」称号の主張は、東ローマ皇帝の後継者としての意味合いと同時にジョチ・ウルスの支配の継承を意図するものであったと見る説もある。イヴァン4世は1576年、皇子(ツァレーヴィチ。当時のロシアの用語例では、ハンの血を引くモンゴル系貴族のこと)シメオン・ベクブラトヴィチに一度ツァーリ位を譲った後、再び自身が譲位を受けるという行動を取るが、この説に立つ人々は、これをハン(ツァーリ)の後継者としての宣言であったと解釈している。

ピョートル1世1721年に西欧式の「インペラートル」の称号を用い始め、国号を正式にロシア帝国としたが、ロシアの君主は以後も「ツァーリ」の称号を併用した。あくまで自称であり、西欧諸国からは皇帝とは認められなかったが、前述の通り「ローマ皇帝の後継者が皇帝を名乗るという建前」が西欧において消滅した頃には、ロシア皇帝も東ローマ帝国の帝位の後継者という意味が忘れ去られた格好で、西欧諸国からも正式に認められるようになった。



ユーラシアの皇帝

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ヨーロッパと東アジアの直接交流は、ローマ皇帝アントニヌス・ピウス(またはマルクス・アウレリウス・アントニヌス)が漢の皇帝に使者を送ったのが最初であり、この際に漢の側ではローマ皇帝のことを「大秦王安敦」と記した。その頃の中国は「皇帝は地上に一人のみ」の時代であり、ローマ皇帝であっても王扱いであった。またローマ帝国の側でも当時は「元首政(プリンキパトゥス)」の時代であり、ローマ皇帝が王より格上であるいう認識、さらには君主であるという認識すら存在しなかった。

後に江戸時代新井白石が、著書『西洋紀聞』において、「インペラドールは漢の帝というのに似ている。レキスは漢の王に似ている。」と記述した。ヨーロッパの皇帝と王を、前漢郡国制における皇帝と諸侯王となぞらえて、ヨーロッパの皇帝を、東アジア的な意味での「皇帝」と同格のものとみなしたわけである。ただ白石の場合、日本の天皇も中国の皇帝と同格と見なしており、その自らの思想に裏付けを与える意味でも、中国の皇帝と同格の存在が他にもいたほうが都合がいい、という事情もあったものと思われ、実際に『西洋紀聞』には「インペラドール」は複数存在する事が述べられている。
その他の地域の皇帝

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ペルシア帝国

イスラム化以前にメソポタミアイランを支配したアケメネス朝サーサーン朝シャーにも「皇帝」という訳を用いられることがある(日本では「王」「大王」「帝王」といった訳が用いられることの方が多いようである)。パルティアやペルシアの君主は「諸王の王」という称号を用い、他の「王」より格上であると称していた。
イスラム圏

イスラム世界の君主には様々な称号があるが、その中で巨大な領域を支配していたカリフ(本来は信徒代表の意味であり、トルコ革命でも世俗君主であるスルタン位は革命時に即座に奪われたが、カリフ位は皇族追放まで奪われなかった)スルタンシャーパーディシャー)に「皇帝」の訳をあてることが多い(ただし現代においてブルネイオマーンなどの君主がスルタンを称する国の場合、通常は「国王」と訳される)。これに対して、マリクには「王」、アミールには「首長」の語が定訳とされ、「皇帝」と訳されることはあまりない。アミールの上位号には大アミールアミール・アル=ムスリミーンアミール・アル=ムウミニーンがある。

オスマン帝国では、第3代君主ムラト1世の時代にスルタン号を称するようになったが、オスマン帝国の歴史記録によると「パーディシャー」(ペルシャ語由来で皇帝の意)を称する場合が多かった。また、東ローマ帝国を滅ぼしたメフメト2世や最盛期の皇帝であるスレイマン1世は、東ローマ皇帝の後継者を自任し「ルーム・カイセリ」(ローマ皇帝、「カイセリ」は「カエサル」の意)という称号を用いた、と言われている[94]

イスラム帝国カリフ

オスマン帝国(カリフ、スルタンパーディシャー、ルーム・カイセリ)

ムガル帝国(パーディシャー)

サファヴィー朝シャー


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