皇帝_(中国)
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こうした意味で、現代の学者の中には中国史における「皇帝」の称号を「thearch」(神君)と訳す者もいる[3]

しばしば、即位した皇帝の父がまだ存命中のことがあり、その場合、皇帝の父は、太上皇と呼ばれた。この慣習は、始皇帝が自身の父に「太上皇」と諡号したことに起源を持つ。を建国した劉邦は、父が存命中に即位した最初の皇帝であるが、平民であった父から礼を受けることのないよう、父の存命中に「太上皇」の称号を与えたと言われている[要出典]。

その後何世紀にもわたり中国が四分五裂し政治的統一が図られなかったことが原因で、「中国皇帝」号を自称する者が多数出現することもまれではなかった。征服者らは多くの場合、天命という中国の政治的な概念を用いて、自らの称号を正統化した。誰を正式な君主とみなすかは、王朝正史によって定まると考えられていた。つまり、前王朝史の編纂を行うことは、九鼎伝国璽のような皇位の象徴物と同様、現在の王朝の正統性を証明するものと考えられていたのである。始皇帝のように、統一者が事後的に祖先に諡号を授けることは非常に一般的であったが、しかし中国の正史でも、そのような諡号があっても、新王朝成立の有効な布告以前の者を皇帝とみなすことはしていない。

王朝王朝は、外部からの侵略者の征服により建国されたが、両王朝ともやはり中国支配の一環として、王朝樹立の正式な宣告儀式を行い、また民族固有の称号に加え「皇帝」という中国式の称号を称することとなった。たとえばクビライはモンゴルのカンであり、同時に中国の皇帝でもあった。
皇帝の数

一説には、秦朝から清朝まで、小国の支配者を含めて557人の皇帝がいたとされる[4]李自成黄巣袁術らのように、皇帝を自称して自ら帝国を建設し、既成の皇帝の正統性に対抗して政権転覆を図ろうとする者もいた。著名な皇帝としては、秦朝の始皇帝や漢の高祖武帝、隋の文帝、唐の太宗、元のクビライ、明の洪武帝永樂帝、清の康熙帝が挙げられる[5]

皇帝の言葉は「聖旨」、布告書は「上諭」と呼ばれた。理念上、皇帝の命令は直ちに実行されるべきものであった。皇帝はあらゆる平民、貴族、皇族の上位に置かれ、皇帝に話しかける際は、近親の皇族でさえ常に儀礼的でへりくだった言葉を用いた。

しかし現実には、皇帝権限の大きさは皇帝や王朝により異なっていた。概して、中国の易姓革命では、王朝を建国した皇帝は、通常専制政治によって帝国を統一的に支配した。例えば始皇帝太宗クビライ、清の康熙帝がそうである。これらの皇帝は、治世を通じて絶対君主として君臨し、中央集権的国家権力を保持し続けた。一方、では、皇帝の権力がかすむほど宰相の力が強かった。

謀反で退位する場合を除き、皇帝の地位は常に世襲され、通常は長子相続によった。その結果多くの皇帝は幼少期に帝位を世襲した。皇帝が未成年者の間は、皇太后(皇帝の母)が大きな権限を握ることになった。事実、中国の帝政史を通じ、女性の支配者の大半は、息子の名代として摂政となり権力を得ている。著名な例に呂雉や、ともに摂政として一時期共同統治した清の西太后東太后がいる。皇太后が政治的に弱く権力を掌握できない場合は、廷臣が支配することがしばしばあった。宦官は、しばしば皇帝がそのうちの数人を腹心として信頼し、多くの朝廷文書を閲覧する権限を与えたため、権力機構の中で重要な役割を担った。宦官が強大な権力を握った例もいくつかあり、魏忠賢は、中国史上最も強力な権力を握った宦官の一人である。また他の貴族が摂政として権力を掌握した例もある。中国の皇帝が実効支配した地域の大きさは、王朝により異なる。南宋時代のような場合、東アジアの政治権力は、事実上いくつかの政権に分割されていたが、それでもなお君主は唯一人しか存在しないとする政治的虚構が維持された。
世襲と皇位継承

皇帝の称号は世襲のもので、各王朝とも伝統的に父から息子に継承された。しかし崩御した皇帝に男子がいない場合に、弟が帝位を継承した例もある。多くの王朝の慣例では、皇后から生まれた長男(嫡長子)が帝位を継承することになっていた。皇后に子が生まれない場合は、皇帝は多くの側室の中から子をもうけた(皇帝の子は全て生母に関係なく皇后の子とされた)。王朝によっては、嫡長子の継承に異議が唱えられ、多くの皇帝に多数の子孫がいたため、対立する皇子の間で継承を巡る争いが起きた。死後の紛争を避ける目的で、皇帝はしばしば存命中に太子を指名した。しかしそのように明示的に指名を行った場合でさえ、しばしば嫉妬や不信から、太子が皇帝に対し、あるいは兄弟間で謀略が巡らされ、指名が蔑ろにされた。たとえば雍正帝など、皇帝によっては太子の地位を廃止して、継承者を指名した紙を箱に入れて封印し、皇帝の死後まで開封・公表させないこともあった(太子密建)。

例えば日本の天皇の場合と違い、中国の政治理論では、支配皇室の変更が許された。これは天命の概念に基づくもので、その背景にある理念は、中国の皇帝は「天の子」としてふるまい世界の全人民を支配する信託を有するが、ただしそれは皇帝が人民によく奉仕する場合に限られる、とするものであった。洪水や飢饉のような自然災害その他の理由で統治の資質に疑問を持たれた場合、謀反は正当化された。この重要な概念が、王朝輪廻や王朝の変更に正当性を与えた。

この理論は、王朝のような農民による新たな王朝建設や、モンゴル民族のや満州族の清のような征服王朝の建国を可能とした。「天からの信託」を有するかどうかは、道徳的廉直さと慈悲を備えた統率力によって判断された。中国史における合法的な女帝は(または自身の建てた武周)の武則天だけである。しかし多くの女性が、通常皇太后として事実上の指導者となった。その著名な例には、同治帝(1861年-1874年)の母として、ついで光緒帝(1874年-1908年)の養母(血縁上は伯母)として、清を47年間(1861年-1908年)支配した西太后や、呂雉がいる。
呼称・用語詳細は「w:Chinese sovereign」を参照

皇帝は、法により誰によっても犯すことのできない絶対的な地位にあったので、臣下は、たとえ皇帝と直接会話を交わさない場合でも、皇帝の面前では皇帝に最大の敬意を表さなければならなかった。玉座に近づく際には皇帝の眼前で叩頭することが求められた。皇帝との会話では、いかなる形であれ自身を皇帝と同列に置くことは罪とみなされた。皇帝の母でさえ本名で皇帝を呼ぶことは禁忌であり、代わりに皇帝や児を用いた。皇帝には決して通常の二人称で呼びかけてはならず、皇帝と話す際は、陛下、皇上、聖上、天子と呼ぶことになっていた。皇帝をに喩えて婉曲に言及することもあった。家臣はしばしば万歳爺と皇帝を呼んだ。皇帝は自らを朕(本来は古代中国語の一人称で、始皇帝が皇帝専用の自称とした。西洋では「尊厳の複数」がこれに相当する)と呼び、臣下の前では寡人と呼んだ。

即位名(例:ジョージ5世)や個人名(例:ヴィクトリア女王)で君主を呼ぶ西欧の慣例とは対照的に、在位中の皇帝を三人称で触れる場合にはただ皇帝陛下または当今皇上と呼んだ。清では、場合により大きく異なることがあるものの、通常は大清皇帝陛下、皇上、聖上、天子、万歳爺と呼称した。

一般に皇帝は元号(年号)の制定も行った。元号を導入した漢の武帝から朝まで、皇帝は在位中に半ば定期的に改元するのが慣習であった。明と清では一世一元の制を採用し、人民はしばしば旧代の皇帝を指すのに元号を用いた(例:洪武年間の洪武帝)。

一方で、古代の王朝では、皇帝は死後に贈られた諡号で呼ばれた。これは、皇帝の死後、臣下が生前の事績をもとに評議して奉られる尊号の一種であり、したがって元号を用いた呼称とは異なり皇帝が生前に自らの諡号を知ることはできなかった。諡号は「○○皇帝」のような形式に従って決定され、奉られた(例:漢の「孝武皇帝[注 4]」)。

諡号と類似したものに廟号がある。これは、皇帝が皇帝家の宗廟であり王朝の歴代皇帝を祀る太廟で祀られる際の尊号である。廟号の形は「〇祖」と「〇宗」があり、王朝の建国者や中興の祖は「〇祖」、それ以外の皇帝は「〇宗」とされた。廟号がほとんどすべての皇帝に奉られるようになったのは以降であり、これは唐の太宗前後以降諡号が長大化して普段の使用に不向きとなり(例:北宋真宗の諡号「応符稽古神功譲徳文明武定章聖元孝皇帝」)、代わって廟号を事績の評価・死後の呼称に用いる必要が生じたためである。多くの皇帝は廟号も与えられ、ときに諡号と併用された(例:康煕帝の呼称「聖祖仁皇帝」)。ただし、死後に正統性を否定された皇帝には諡号及び廟号は奉られなかった(例:前漢の廃帝劉賀)。

皇帝の死去は駕崩と呼ばれ、死去後間もない皇帝は、大行皇帝と呼ばれた。皇帝は皇帝陵に埋葬された。
皇族

皇室は、皇帝、および正室であり国母である皇后とで構成された。加えて皇帝はしばしば正室の他に複数の側室や妃嬪を有し、皇后を頂点に重要度により階層化された後宮を置いた。各王朝は後宮の数的構成について規則を設けていた。例えば清(1644年-1911年)では必ず皇后1人、皇貴妃1人、貴妃2人、妃4人、嬪6人を置くのが皇室の慣習で、さらに側室や妃嬪を無制限に置くことができた。皇帝は法の上では最高位者であったが、伝統と先例により、皇帝の母つまり皇太后が、通常宮廷で最高の敬意を受け、皇室内の多くの事項を決定した。特に年少の皇帝が即位した場合など、時として事実上の君主としてふるまった。皇帝の子(皇子・公主)は、しばしば出生順による名称で呼ばれた(例:皇長子、皇三女など)。皇子は成人するとしばしば貴族の呼称を与えられた。皇帝の兄弟や伯叔父も法により宮廷に仕え、他の宮臣(子)と対等の地位が与えられた。皇帝は年齢や世代の上下に関係なく常に全ての者の上位にあった。
歴代皇帝一覧詳細は「中国帝王一覧」を参照


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