皇室
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また、『隋書』倭国伝に倭国王の姓を「阿毎」(あま、あめ)とする記述があり、7世紀初頭まで大王家が姓を有していたとする説もあるが、中国風の一字姓でないことから「阿毎」は姓でないとする説もある[39]。大王家の「倭」姓は、中国の冊封体制から離脱した5世紀末ないし、氏姓制度の形成が進んだ5世紀末から6世紀前半までの間に放棄されたとする説も提出されている[39]。文献では、姓はアメ、字はタラシヒコと記述されているが、日本語では、「天垂らし彦」になり、天から垂れた(降りた)男子という意であり[41][42]、つまり「天孫」という意味になる。中国語では「天子」(『通典』では「天児」)がこれに当たるが、中国の天子とは意味が異なる[43]。一方で、熊谷公男は『万葉集』の「天の原 振り放(さ)けみれば 大王の 御寿(みいのち)は長く 天足らしたり」(巻二から一四七)の歌などを参考に、「天の満ち足りた男子」という意味の尊称と解釈している[44](この説は森田悌も支持している[45])。森田悌は邪馬台国の時代では、「天垂らし彦」の称号があったとは考えがたいとし[46]、以後の時代に大陸思想の影響から芽生えたとみている[47](また、「天子」という語が反感を受けたのに対し、「天垂らし彦」の反応が低かったことに注目している)。王仲殊も阿毎多利思比孤は「天足彦(天の満ち足りた男子)」とした(天垂らし彦説もあると紹介した)上で、この語の中にはすでに「天子」「天皇」といった意味が含まれており、これは最初の国書で日中両国の君主を共に「天子」と称したため、中国側の不快感をあおったところから、それぞれ天子を「皇帝」と「天皇」と呼び変えて区別を示したとする[48]

吉田孝は、倭国が5世紀末に中国の冊封体制から離脱し、7世紀初頭の推古朝でも倭国王に冊封されなかったことが、大王=天皇が姓を持たず「姓」制度を超越し続けたことにつながったとしている[39]
最高敬語詳細は「最高敬語」を参照
御写真
写真。旧字体では「御寫眞」。官衙(役所・官庁)、学校等に下賜された天皇・皇后の写真ではなく、それ以前の天皇皇后である明治天皇昭憲皇太后大正天皇貞明皇后昭和天皇香淳皇后の写真をいう。また、各皇族の場合にも用いる。戦前、宮内省(現在の宮内庁)では「御寫眞」と発表していたが、巷間の「御真影」(ごしんえい)という名称も使用可である。
御影
天皇・皇后の写真。「ぎょえい」とよむ。1910年(明治43年)以降、文部省中央省庁再編後の文部科学省)の調査委員会で定め各学校に発布した。
御尊影、御尊像、御肖像
天皇、皇后、皇太后の写真。主として、新聞・雑誌に奉載したものをいう。
自尊敬語
天皇が一人称を使うときは、第二次世界大戦直後までは「朕(ちん)」を使っていた。戦後は「私(わたし、わたくし)」を使用している。
皇室会議詳細は「皇室会議」を参照

皇室会議は、日本の皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。皇室典範第28条以下に定められる。

以下の重要事項について、皇室会議の「議を経る」または「議に拠る」こととされ、諮問機関とは一線を画する。
皇位継承の順序変更(皇室典範第3条)

立后と皇族男子(親王)の婚姻(同第10条)

皇族の身分の離脱(同第11条・第13条・第14条):皇族女子の結婚による皇籍離脱(同第12条)は除く

摂政の設置・廃止(同第16条・第20条)

摂政の順序の変更(同第18条)

議員

皇室会議議員氏名身分生年月日(年齢)備考
皇嗣文仁親王皇族 (1965-11-30) 1965年11月30日(58歳)
正仁親王妃華子皇族 (1940-07-19) 1940年7月19日(83歳)
額賀福志郎衆議院議長 (1944-01-11) 1944年1月11日(80歳)
海江田万里衆議院副議長 (1949-02-26) 1949年2月26日(75歳)
尾辻秀久参議院議長 (1940-10-02) 1940年10月2日(83歳)
長浜博行参議院副議長 (1958-10-20) 1958年10月20日(65歳)
岸田文雄内閣総理大臣 (1957-07-29) 1957年7月29日(66歳)議長
西村泰彦宮内庁長官 (1955-06-29) 1955年6月29日(68歳)
戸倉三郎最高裁判所長官 (1954-08-11) 1954年8月11日(69歳)
深山卓也最高裁判所判事 (1954-09-02) 1954年9月2日(69歳)


2023年(令和5年)12月20日現在[49]

警備詳細は「皇宮警察本部」を参照

天皇および皇后皇太子その他の皇族護衛皇居および御所警衛、その他皇宮警察に関する事務をつかさどる[50]機関として、皇宮警察本部[51](こうぐうけいさつほんぶ、英:Imperial Guard Headquarters)が置かれる。警察庁附属機関[50]で、本部所在地は東京都千代田区千代田1番3号。

本部長は、皇宮警視監階級皇宮護衛官であるが、慣例により内閣府事務官である宮内庁職員にも併任される。

本部の紋章は五三桐[注 6]である。桐紋菊花紋章と並んで古来から皇室の象徴とされてきた。

皇居のうち、宮殿および皇居東御苑等の区域を担当する坂下護衛署、御所宮中三殿等の区域を担当する吹上護衛署、赤坂御用地(赤坂御所(旧東宮御所)・各宮邸等)および常盤松御用邸(常陸宮邸)の区域を担当する赤坂護衛署が設置されている。東京以外では、京都府には京都御所京都仙洞御所京都大宮御所桂離宮修学院離宮および正倉院奈良市)の区域を担当する京都護衛署を置き、神奈川県の葉山御用邸栃木県の那須御用邸、御料牧場静岡県の須崎御用邸、奈良県正倉院には、皇宮護衛官派出所が置かれている[52][53]
皇室系図詳細は「皇室の系図一覧」を参照


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