皇太子
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これは、第41代持統天皇以来の皇太子空位による古代貴族間の権力闘争を防ぐ対応策であると考えられている[79]

しかし、道祖王同性愛や機密漏洩等の不行跡を理由として史上初めて廃太子された[80] ことにより、立太子後も皇太子位の廃黜を可能にする段階が到来した[81]

その一方で、平安時代初期の高岳親王[注釈 12]以降、廃太子にされた者が幽閉もしくは処刑された例はみられなくなる。これは皇族身分に対する考え方の変化(譲位の発生、親王宣下や臣籍降下の導入による身分変動の恒常化)によって廃太子も特定皇族に対する「身分」から現象として捉えられるようになり、廃太子された者も一般の親王として扱われるようになったことによる[83]
継承の例

南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」にならないこともあった。これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君(ちょくん、もうけのきみ)」と呼ばれた。

南北朝時代において、南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。これに対して、北朝においては、後光厳天皇から南北朝合一を遂げた遙か後の霊元天皇に至るまで、300年以上に亘って立太子を経ない儲君が皇位に就いている。立太子礼が復活した後も、儲君治定から立太子礼まで1年から数年の期間があり、江戸時代では実質儲君治定が次期皇位承継者の決定であった。江戸時代後期の皇室系図

             
         
114 中御門天皇     閑院宮直仁親王

                      
          
115 桜町天皇     典仁親王 (慶光天皇) 倫子女王 鷹司輔平

                   
          
117 後桜町天皇 116 桃園天皇 美仁親王 119 光格天皇

                 

    118 後桃園天皇     120 仁孝天皇

                         
          
            桂宮淑子内親王 121 孝明天皇 和宮親子内親王

                   

                122 明治天皇

                     

2019年令和元年)5月1日現在、皇太子以外の皇嗣(先帝とは2親等以上離れた続柄にあたる皇族)が皇位を継承したのは、1779年安永8年)に第118代後桃園天皇が嗣子なく[注釈 13] 崩御したことに伴い、その傍系にあたる閑院宮直仁親王が創設)から践祚した兼仁親王(第119代光格天皇)が最後である。

光格天皇の皇子恵仁親王(仁孝天皇)から第126代徳仁までの歴代天皇は全て皇太子(光格天皇の直系子孫)[注釈 14] によって皇位が継承され、この皇統が現在の皇室に連なっている。
立太子の礼詳細は「立太子の礼」を参照徳仁親王(当時)の立太子の礼
1991年(平成3年)2月23日1952年(昭和27年)、立太子の礼を行う明仁親王(当時)

皇室典範制定以前と異なり、立太子の礼自体は皇太子の地位の要件ではない。立太子の礼は、天皇における即位の礼と同様、内外に地位を宣明するための儀式である。かつては、幼少の儲君の立太子の礼も行われた。これに対して、現皇室典範制定後は、皇太子の成年を待って立太子の礼を行う。皇太子、皇太孫の成年は18歳とされている(旧典範13条、現典範22条)。

旧皇室典範の下では、立太子の礼は2回行われた。

明宮嘉仁親王1889年明治22年)11月3日

迪宮裕仁親王1916年大正5年)11月3日

皇室典範の施行後は、立太子の礼は2回行われている。

継宮明仁親王1952年昭和27年)11月10日

浩宮徳仁親王1991年平成3年)2月23日

皇太弟・皇太甥

次期皇位継承者が在位中の天皇から見て何も傍系であり、弟である場合は皇太弟(こうたいてい)、甥(弟の男子)である場合は皇太甥(こうたいせい)と呼ばれる事例がある。院政期においては皇太子の称号は父権の存在を意味した。今鏡には、第75代崇徳天皇が父親である鳥羽上皇に譲位を要請されたことに従って弟宮である躰仁親王(のち第76代近衛天皇)を後継に立てたが、立太子の際に躰仁親王が皇太子ではなく「皇太弟」の立場で立てられたことにより、譲位後の崇徳上皇が近衛天皇に対する父権を行使できず、院政を行うことができなかったと言う記述がある[84]

江戸時代までは、次期皇位継承者が確定した時点等において立太子の礼を行い、その方に皇太子の身分を授けることが通例であり、称号については、今上天皇の子である場合だけでなく、兄弟やその他の親族である場合も、「皇太子」と称されることが大半であった。なお、弟宮が次期皇位継承者とされた例は18例あるが、このうち天皇によって称号が「皇太弟」と定められたことが明らかな例は3例のみであるとされる[85]

現在、皇室典範皇室経済法には皇太弟や皇太甥などに関する記載はない[注釈 15]。仮に皇位継承順第1位の者が在位中の天皇の弟または甥の場合、東宮職員、今まで皇太子の執り行ってきた公務の引き継ぎ、内廷皇族宮家皇族で相当に差のでる内廷費・宮廷費などの諸費用をどうするのかという問題が懸念されていた[30]

令和時代においては、第125代天皇明仁退位に際する特例法である、天皇の退位等に関する皇室典範特例法第5条により秋篠宮文仁親王は「皇嗣」として、皇室典範における皇太子と同様に扱われることとされた。同法附則第6条により皇族費が増額され、同法附則第11条により東宮職に代わって皇嗣職の新設が規定されている。
歴代皇太子

先述の通り、日本における「皇太子」及びその前身となる概念がいつ頃成立・確立したかについては様々な議論がある。以下には、1981年(昭和56年)の書籍[89]及びその後の皇位継承に基づく歴代皇太子を挙げる。

皇太子読み天皇から
見た続柄立太子備考
菟道稚郎子うじのわき
いらつこ子辞退 自殺
木梨軽皇子きなしの
かる子允恭23年自殺
厩戸皇子うまやど甥593薨去
草壁皇子くさかべ子681.2.25早世
軽皇子かる孫697.2.16
首皇子おびと甥714.6.25
基親王もとい子727夭逝
阿倍内親王あべ子738.1.13現在に至るまで唯一の女性皇太子
道祖王ふなど従叔祖父[注釈 16]756.5.2廃太子
大炊王おおい従叔祖父757.4.4
白壁王しらかべ再従伯祖父[注釈 17]770.8.4[注釈 18]


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