皇太子
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成立当初の皇太子位は、文武天皇の系譜を維持することを目的とするかのように、聖武天皇の息子である基皇子は生後わずか32日で立太子された(その後、生後1年に満たずに夭折した)[67]

基皇子の薨去後、長屋王の変により、嫡流に近い血統と政治的実権を持つ長屋王が失脚・自害すると、藤原家光明子(安宿媛)の立后が実現し、史上初の皇族出身以外の皇后が誕生した。この際、『後日本記』によれば、聖武天皇は光明子が「皇太子の母」であったことを立后の理由として宣言した[68]

後継者となる皇子のいない聖武天皇は、天平10年(738年)に阿部内親王を皇太子とした。先の元正天皇は、未婚で皇后・母后でもなく、また立太子されることも無かったため、草壁皇子と元明天皇の「皇女である」以外の皇位継承理由は無かった[62]。しかし、聖武天皇の皇女である阿部内親王は、立太子を経て、即位しており、この頃までに皇太子が次期天皇である認識が確立され、また「次期皇位継承者の存在を明示する儀礼」として立太子礼も整備された[62]。ただし、女子である阿部内親王の立太子は、先述(→#孝謙・称徳天皇(阿部内親王))の通り、前例に反していることから強い反発を生み、天平12年(740年)の藤原広嗣の乱天平勝宝9歳(757年)の橘奈良麻呂の乱の遠因となった。

なお、発掘調査では、2014年(平成26年)2月に奈良文化財研究所(奈文研)が実施した平城宮跡東側の発掘調査で、「二人皇」と「太子」の文字が書かれた木簡の削り屑が全国で初めて発見された。木目の状態などから元は同じ木簡に書かれ、本来は「皇太子」と書かれていたとみられる。また、同じく発見された他の木簡には「養老7年」(=西暦723年)「神亀元年」(=西暦724年)と読める文字もあったことから、この「皇太子」は首皇子(後の聖武天皇)を指すとみられる。調査した史料研究室長の渡辺晃宏は「『二人』は首皇子の警護の人数を示していると考えられる。」としている[69][70]

宝亀7年(776年)には皇太子である山部親王のために護衛として帯刀舎人が置かれた。
「皇子宮」から「春宮」「東宮」へ

7世紀後半の天武天皇、続く持統天皇の時代(天武・持統期)には、皇子の居所は天皇の居所と異なり「地名+宮」「人名+宮」と表記されており、「皇子宮」(みこのみや)は、当時の皇子の一般的な居住形態であった。壬申の乱において、天武天皇(即位前:大海人皇子)に出仕し強い臣従関係で結ばれた舎人の果たした役割は大きく、乱後に即位した天武天皇は、それぞれの皇子に対してでなく天皇への集権的な臣従の強化を図り、新たな舎人制度が成立した[71]。さらに持統天皇は、藤原京の造営により皇族にも、都の中への宅地を強制した[72]。この政策の本質は、旧来の居住制の変更と天皇への臣従を強化することであった[73]。やがて、皇子の居所は「家」「宅」「第」と称されるようになり、「宮」は皇親への尊称に変化していった[74]

「皇子宮」が衰退・変容していく中、8世紀半ばに施行された養老律令では、次期天皇である皇太子の家政機関である春宮坊(とうぐうぼう、みこのみやのつかさ)は、太政官による直接の統制を受けた[75]。皇太子の居所である「東宮」の訓は、『日本書紀』に「ひつぎのみや」の例があるが、東宮職員令をはじめとする文献資料では、多くの場合「みこのみや」と訓んでいる[76]。この事実から、皇子宮の退転に伴う転化発展により、東宮機構が成立したと考えられている[77]

後代には、皇太子は、東宮、春宮、と表記され、「とうぐう」「ひつぎのみこ」「はるのみや」などと読まれた。いずれも、「皇太子の居住する宮殿」の意となる。
廃太子「廃太子」も参照

第46代孝謙天皇から第54代仁明天皇までの約1世紀の間(奈良後期?平安初期)に、皇太子の地位を剥奪された「廃太子」が5件(5名)集中的に発生している。この時期には、天皇の即位と近い時期に立太子が行われていることが特徴である[78]。これは、第41代持統天皇以来の皇太子空位による古代貴族間の権力闘争を防ぐ対応策であると考えられている[79]

しかし、道祖王同性愛や機密漏洩等の不行跡を理由として史上初めて廃太子された[80] ことにより、立太子後も皇太子位の廃黜を可能にする段階が到来した[81]

その一方で、平安時代初期の高岳親王[注釈 12]以降、廃太子にされた者が幽閉もしくは処刑された例はみられなくなる。これは皇族身分に対する考え方の変化(譲位の発生、親王宣下や臣籍降下の導入による身分変動の恒常化)によって廃太子も特定皇族に対する「身分」から現象として捉えられるようになり、廃太子された者も一般の親王として扱われるようになったことによる[83]
継承の例

南北朝時代から江戸時代中期にかけては、次期皇位継承者が決定されている場合であっても、「皇太子」にならないこともあった。これは、当時の皇室の財政難などにより、立太子礼が行えなかったためである。通例であれば、次期皇位承継者が決定されると同時に、もしくは日を改めて速やかに立太子礼が開かれ、次期皇位継承者は皇太子になる。しかし、立太子礼を経ない場合には、「皇太子」ではなく、「儲君(ちょくん、もうけのきみ)」と呼ばれた。

南北朝時代において、南朝では最後まで曲がりなりにも立太子礼が行われてきたとされている。これに対して、北朝においては、後光厳天皇から南北朝合一を遂げた遙か後の霊元天皇に至るまで、300年以上に亘って立太子を経ない儲君が皇位に就いている。立太子礼が復活した後も、儲君治定から立太子礼まで1年から数年の期間があり、江戸時代では実質儲君治定が次期皇位承継者の決定であった。江戸時代後期の皇室系図

             
         
114 中御門天皇     閑院宮直仁親王

                      
          
115 桜町天皇     典仁親王 (慶光天皇) 倫子女王 鷹司輔平

                   
          
117 後桜町天皇 116 桃園天皇 美仁親王 119 光格天皇

                 

    118 後桃園天皇     120 仁孝天皇

                         
          
            桂宮淑子内親王 121 孝明天皇 和宮親子内親王

                   

                122 明治天皇

                     

2019年令和元年)5月1日現在、皇太子以外の皇嗣(先帝とは2親等以上離れた続柄にあたる皇族)が皇位を継承したのは、1779年安永8年)に第118代後桃園天皇が嗣子なく[注釈 13] 崩御したことに伴い、その傍系にあたる閑院宮直仁親王が創設)から践祚した兼仁親王(第119代光格天皇)が最後である。

光格天皇の皇子恵仁親王(仁孝天皇)から第126代徳仁までの歴代天皇は全て皇太子(光格天皇の直系子孫)[注釈 14] によって皇位が継承され、この皇統が現在の皇室に連なっている。
立太子の礼詳細は「立太子の礼」を参照徳仁親王(当時)の立太子の礼
1991年(平成3年)2月23日1952年(昭和27年)、立太子の礼を行う明仁親王(当時)

皇室典範制定以前と異なり、立太子の礼自体は皇太子の地位の要件ではない。立太子の礼は、天皇における即位の礼と同様、内外に地位を宣明するための儀式である。


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