皇太子
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天平15年(743年)5月、宮中で皇太子阿部内親王は群臣を前に五節舞を舞った[16]。文武天皇の子孫と新田部皇子の子孫の融和の象徴である天武天皇[17]が創始した五節舞を皇太子が習得して披露したことは、「君臣、祖子の道理」を説くものとされ、阿部内親王の皇位継承の正統性をアピールし権威付けする催しであった[18][19]。言い換えれば、史上初[注釈 7]の女性皇太子の地位は盤石ではなかった[20]。こうした中で「女性皇太子」を肯定するため、光明皇后(及び実家である藤原氏)の政治力が拡大した結果、前例や慣習と政治力との均衡が崩れ[21]、次のような社会的混乱を招いた。

天平12年(740年)9月に発生した藤原広嗣の乱は、挙兵理由のひとつとして前例に反した阿部内親王の立太子があると指摘する見解がある[22]

天平17年(745年)8月、難波行幸中の聖武天皇が重篤となると橘奈良麻呂はクーデターを画策し、佐伯全成を勧誘した際「猶無立皇嗣(なお皇嗣立たざる無し)」と発言している[23]。この「皇嗣」は、「皇太子阿部内親王」を否定するとする解釈[24]、「阿部内親王の次代の後継者」が不在であるとする解釈がある[25]。阿部内親王の即位後、天平勝宝9歳(757年)に奈良麻呂は叛乱を起こし、敗死した(橘奈良麻呂の乱)。

以降の女性天皇

また、孝謙天皇以後の女性天皇の例として、寛永6年(1629年)11月8日の興子内親王の践祚明正天皇)や、宝暦12年(1762年7月27日の智子内親王の践祚(後桜町天皇)の二例があるが、いずれも立太子を経ていない。したがって、孝謙天皇以降、現代に至るまで女性が「皇太子」等の称号を得たことは無い。
評価

孝謙天皇の例を踏まえて、2005年(平成17年)の小泉純一郎政権下での「皇室典範に関する有識者会議」報告書においては「天皇、皇太子、皇太孫という名称は、特に男子を意味するものではなく、歴史的にも、女子が、天皇や皇太子となった事実が認められる」とされ、「女子の場合も同一の名称を用いることが適当である」と結論付けられた[26]。なお、同報告書は、安倍晋三政権下の2007年(平成19年)に白紙撤回されている[注釈 8]

一方、孝謙天皇(阿部内親王)の立太子に前後に生起した政情不安定の遠因は、前例があり律令で認められた「女性天皇(女帝)」ではなく、前例に反した「女性皇太子」の強引な出現による政治均衡の崩壊にあると考えられている[27]。奈良朝政治史研究者の大友裕二は、この歴史的事実を踏まえ、現代皇室についても「(引用註:前例の)範囲を超えないように改善していく必要があるのではなかろうか」としている[27]
法的推定相続人詳細は「王位継承#最先順位の継承権者と称号」および「推定相続人」を参照

推定相続人(すいていそうぞくにん)は、君主位や爵位の継承において、「現在は継承権第1位であるが、将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がある人物」をいう。典型的な例として、長子相続制における子のいない君主の弟・妹や、男子優先長子相続制における息子がいない君主の長女がある。

法定推定相続人(ほうていすいていそうぞくにん)は、「君主位や爵位の継承において、将来自分より上位の継承権を持つ人物が生まれる可能性がない継承権第一位の人物」をいう。典型的な例として、長男相続制および男子優先長子相続制における長男や、長子相続制における第一子がある。継承権第一位が確定しているという点では皇太子(王太子)と共通するが、「法定推定相続人」という単語は称号ではなくあくまで系図学的な用語であるため、本人への呼びかけなどとしては用いられない。
日本の皇太子
現在の定義
皇室典範第8条
皇嗣たる皇子を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という。
現在の皇太子

2019年令和元年)5月1日に第126代天皇として即位した今上天皇(徳仁)には、皇子(皇男子)がいない。また皇嗣たる秋篠宮文仁親王も今上天皇の弟、すなわち皇弟であり、「皇嗣たる“皇子”」ではない。

そのため、秩父宮雍仁親王以来[注釈 9]86年ぶりに、また現行の皇室典範下では初めて、皇太子は空位になった[28]
概要

日本
皇太子
皇太子旗
在位中の皇太子
空位
2019年(令和元年)5月1日より
詳細
宮殿東宮御所
東京都港区元赤坂赤坂御用地
ウェブサイト宮内庁
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称号:皇太子


敬称殿下
His Imperial Highness the Crown Prince
黄丹袍を着用した皇太子徳仁親王(当時)
1990年(平成2年)11月12日、即位礼正殿の儀にて

1889年(明治22年)、皇室の家内法として旧皇室典範が定められ、皇位継承順序が明文化された。この旧皇室典範15条では、「儲嗣タル皇子」を「皇太子」としていた。

1947年昭和22年)に法律として定められた現行の皇室典範第8条前段では、「皇嗣たる皇子」が「皇太子」とされている。「儲嗣(ちょし)」もしくは「皇嗣(こうし)」は、いずれも皇位継承順第一位の者を指し、「皇子」とはこの場合、当代天皇の子で男子を指す。皇位継承順序の変更は、「皇嗣精神若ハ身体ノ不治ノ重患アリ又ハ重大ノ事故アルトキ」(旧典範9条)、「皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故があるとき」(現典範3条)のみに皇室会議の議(旧典範下では皇族会議の議および枢密顧問への諮詢)により許されている。

成年の皇太子は、摂政就任順の第1位でもあり、1921年(大正10年)11月以降、1926年(大正15年)の大正天皇崩御まで当時の皇太子裕仁親王が摂政に就任した例がある。

「皇太孫」は皇太子不在の際の「儲嗣タル皇孫」(旧典範15条)、「皇嗣たる皇孫」(現典範8条後段)を言う。「儲嗣」もしくは「皇嗣」は、いずれも皇位継承順第1位を指し、「皇孫」とはこの場合、在位中の天皇の孫を指す。

皇太子、皇太子妃、皇太孫、皇太孫妃及び内廷にあるその他の皇族の日常の費用その他内廷諸費には内廷費が充てられる(皇室経済法第4条)。法律により定額が定められ、平成31年度・令和元年度(2019年度)一般会計予算における定額は3億2,400万円である[29]

皇太子に関する事務には宮内庁の内部部局の東宮職が置かれる(宮内庁法第六条)。東宮職は一般事務だけでなく皇太子、皇太子妃、さらにはその独立の生計を営んでいない未婚の子女の家政をおこなっている。職員は約50名ほど。料理人や運転手などの管理部の職員もあわせると60数名[30]

皇太子・皇太子妃は、天皇・皇后とは異なり原則的には団体の名誉総裁には着任しない。ただし、日本赤十字社の名誉副総裁などには着任する。なお、皇太子と皇太孫は皇族の身分を離れることができない(この規定は天皇の退位等に関する皇室典範特例法第5条の定めにより、今上天皇の皇嗣である秋篠宮文仁親王にも及ぶため、文仁親王についても、皇族の身分を離れることができない。)。

古代から、東宮(とうぐう・みこのみや)、春宮(しゅんぐう・はるのみや)、青宮(せいぐう・あおきみや)、日嗣の御子(ひつぎのみこ)、儲宮・儲君(ちょっきゅう・もうけのきみ)、儲王(ちょおう)、帝儲、皇儲、皇継、または元子、太子などと呼ばれてきた。
現代における公務・活動

儀式・行事[31]

歳旦祭の儀

新年祝賀の儀

新年一般参賀


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