皇太子献納車
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注釈^ 陸奥廣吉が同書の編纂にあたって提供した資料のひとつだと考えられている[2]
^ 宮内省は2月下旬の時点で、「食品以外はいかなる献納品も受け付ける」という意向を示していた[11]。民間からの献納の動きは、皇太子の成婚の日取りが5月10日になると公表された4月27日以降、本格化するとなる[11]。この婚儀への献納品の多くは、結婚の日取りの発表が遅れたことの影響を受け[11]、サンフランシスコの日本人会もそれは同様となる。
^ この献金について、必ずしも自発的なものではなく、現地の各県人会が運動して、日雇い人夫から学生まで強制的に徴収されたものだとも言われている[2]
^ 献納に至る経緯は、在米日本人たちが献納を決めた時期や献納車が日本に到着した時期など、時系列の基本部分が長年に渡って不明瞭だったが、大須賀和美、佐々木烈、中部博の調査で1990年代に判明して整理された。
^ 到着した車両について、古河商会を経由して高田商会に送られたという説と、高田商会に直接宛てて送られたという説がある[7]
^ 赤坂分厩は、1897年(明治30年)から翌年にかけて主馬寮によって整備された厩舎[W 2]。現在の赤坂御用地の東門付近に所在していたとされる[W 2]
宮城(皇居)内の厩舎の分厩として活用する目的で設置されたものの、宮城から離れている不便さから本来の用途ではあまり使われない施設となり(不用品の倉庫となり)[W 2]、後に献納車は青山御所からこの分厩に移されることになる[13][15]
^ この事故について、「濠に落ちた」ことはいずれの史料にも記されているが、献納車が「水没」あるいは「浸水」したと伝えている史料がないことや、大きな損傷があったとしている史料がない(どの史料も修復が必要なほどの損傷はなかったということで一致している)ことに留意を要する。
^ 2024年現在は憲政記念館の敷地(建て替え中)。
^ 石井は『明治事物起原』の初版(1906年刊)でも「自動車の始」を書いているが、皇太子献納車については何も書いていない[22]
^ 「参謀本部」が三宅坂にあることは当時の常識で、「柳の井」は三宅坂脇の桜田濠側にある井戸を指し(2020年代の現在も存在する)、大正増訂版よりも位置を特定した記述になっている。
^ 大正増訂版では「ブレーキ」をうまく使えなかったということを繰り返しているが、昭和増訂版ではその点に触れていない。
^ 大正増訂版と記述内容は異なるものの、三宅坂脇の桜田濠は土手がなだらかに続いているので、「お濠に陥りたり」としている大正増訂版の記述と矛盾や明らかな齟齬は生じていない。
^ 坂を登った先には赤坂離宮があったが、老朽化のため1898年(明治31年)8月に取り壊されており、試走が行われた1901年(もしくは1900年)の時点では存在せず、同地では東宮御所(現在の迎賓館赤坂離宮)の建設が進められていた(1906年竣工・1909年完成)。
^ 文脈から高田商会の人物(高田商会において廣田の次席の者)とも読めるが、定かではない。
^ 原文では「中原岩五郎」[26][27]
^ 『史稿』のこの記述は1936年から1937年にかけて雑誌『自動車界』に連載されていた倉本武俊の記事「日本自動車工業発達史」からの引用で[7]、ほぼ同内容の記述が『汎自動車』1943年3月号にもある[26](『汎自動車』記事も倉本の編集によるものだと考えられている[25])。
『史稿』は、倉本が何を出典根拠としたかは不明としつつ[7][16]、倉本の他の記述は余人の調査と照合しても妥当なものが多いことから、献納車についても「何か特殊の根拠史料に基づいたかと推察される」[27]としている。
^ 宮内庁は、1979年もしくは1980年に問い合わせへの回答としてこのことを明かした[2](この回答が「試走を見た」というものだったのかは不明)。皇太子夫妻が献納車の試走を見たことがあるという話は、宮内庁からの回答がある以前から1930年代の倉本武俊の記事や『日本自動車工業史稿』(1965年)などで伝わっていた[26][27](1901年7月の台覧と同一の出来事なのかは不明)。
大正天皇実録』では、7月6日午前に「青山御所内旧御産所に設けられたる御慶事祝賀献品陳列所」を皇太子夫妻が訪れ、献納品を台覧し、高辻修長(当時の東宮侍従長)、足立正声(当時の内大臣秘書官)から説明を受けたという記述がある(電気自動車についての言及はない)[30]。この訪問は明治天皇(4月に生まれた裕仁親王に会うことを兼ねた)や、東宮補導(皇太子の教育係)を務めていた有栖川宮威仁親王も同道しており、それぞれの伝記である『明治天皇紀』[31]や『威仁親王行実』[32]、明治天皇の侍従による『侍従日録』[33]や『侍従長徳大寺實則日記』[34]といった史料の同日の記述にも記録がある(いずれにも電気自動車についての言及はない)。
皇太子夫妻が「電気自動車の試走を見た」という具体的な記録は、『大正天皇実録』では1902年5月4日の出来事として記載がある[35]
^ 嘉仁親王が試走を見たのがこの時の1回だけだったのかは不明。この時も東宮補導の有栖川宮威仁親王が同行[35](威仁親王は後に日本初のガソリン自動車となるタクリー号開発の端緒を作った人物)。
なお、『大正天皇実録』は、完成したのは1936年だが、公刊されたのは2010年代なので、2000年代までの調査でこの史料を基にした言及はない。
^ 有馬は1900年代後半に有栖川宮威仁親王の自動車運転士を務め、1913年(大正2年)に導入された初代御料車の正運転士となる人物[38][36]
「小柴」は、皇室の馬車(御料馬車)製造に携わっていた小柴大次郎のことではないかと推測されている[36]
^ 「日本国内で」(原典では「日本の国土の内で」[8])とするのは、アメリカ合衆国などに渡った日本人が日本国外で運転していた可能性があるため。ただし、実例として知られているものはない。
^ 昭和4年(1929年)に書かれた文章なので、(他の文章で廣田が用いている「年目」の数え方から)「運転した」のは1901年ということになる。
^ 試走を行った年が(1900年ではなく)1901年だということは、廣田精一がたびたび言及している(上述)。
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