皇位継承
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1989年(昭和64年)1月7日、皇太子明仁親王の皇位継承に際しては、昭和天皇崩御直後、同日午前10時1分より皇居正殿松の間で執り行われた。国民代表として、内閣総理大臣(当時:竹下登)、最高裁判所長官(当時:矢口洪一)、衆議院参議院両院議長(当時:原健三郎土屋義彦)の、行政司法立法三権の長、全閣僚(当時:竹下改造内閣)などが参列した。天皇は藤森昭一宮内庁長官(当時)らに先導され、男性皇族を従え、松の間に出御し、参列者に向かい合う形で正面の席に着き、剣璽及び国璽・御璽を侍従が天皇の前にある机に置く短時間の儀式が執り行われた。
皇霊殿神殿に奉告の儀

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皇霊殿神殿に奉告の儀(こうれいでんしんでんにほうこくのぎ)とは、先祖代々の皇霊を奉る皇霊殿、及び天神地祇を奉る神殿において、「新天皇の践祚」を奉告する儀式である。「剣璽等承継の儀」が執り行われているほぼ同時刻に、宮中三殿に於いて掌典長が「新天皇の践祚」を奉告する。
賢所の儀

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賢所の儀(かしこどころのぎ)とは、賢所(けんしょ・かしこどころ)に御神体として奉られている神器、八咫鏡の承継儀式である。平成元年(1989年)1月9日昭和天皇の崩御から2日後に、掌典長により宮中三殿で執り行われた。八咫鏡は宮中に鎮座している複製品である。

この儀式によって、皇位の証である三種の神器を継承した天皇が正統な皇位継承者となるというのが現在の考え方である。

なお、過去には継承の儀を執り行うことが出来なかった天皇が存在する(南北朝分裂期の北朝の天皇など)。
即位後朝見の儀2019年(令和元年)、即位後朝見の儀

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即位後朝見の儀(そくいごちょうけんのぎ)とは、即位(践祚)した新天皇が初めて首相らに言葉を述べる国事行為たる儀式である。平成元年(1989年)1月9日に、皇居正殿松の間で365人の参列者のもと執り行われた。
大嘗祭・大嘗宮の儀1990年(平成2年)、大嘗祭令和の大嘗宮

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1年の諒闇、喪が明けて最初の新嘗祭たる大嘗祭(だいじょうさい)が、即位の翌年に執り行われる。11月卯の日(4番目の日)に4日間に渡って執り行われ、皇位継承に伴う儀式はこれをもって最後とする。

1990年(平成2年)11月23日に、大嘗宮の儀(だいじょうきゅうのぎ)が執り行われた。

なお、継承された神器(天叢雲剣及び八咫鏡)は複製品であるので、時機を見て本物が奉られている伊勢神宮熱田神宮へ即位奉告を行うことになる[要出典]。特に皇祖神である天照大御神の奉られている伊勢神宮への奉告は早期に執り行われる事になる[要出典]。
皇位継承儀礼の変遷第121代孝明天皇の即位礼
弘化4年、於 平安宮(京都御所

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皇位継承儀式の淵源は古く古墳時代において古墳において行われた首長霊(天皇霊)継承儀式だという説が近年、考古学から提言されている。その継承儀式は大嘗祭との関連も含めて現在も未だ様々な説が呈されている状況である[1]

天皇が皇位を継承するにあたって執り行われる行事は数多いが、特に重要であるとして現代に続く行事として、即位の礼の中心儀式で天皇が高御座に上って皇位継承を内外に宣明する「即位礼正殿の儀(←即位礼紫宸殿の儀)」と、歴代の天皇霊を受け継ぐ神道祭祀である「大嘗祭」とが挙げられる。皇室の始原が語られる記紀神話においては、大嘗祭は天岩戸伝説に、即位礼は高千穂峰への天孫降臨にそれぞれ比定されるとの説がある[2]

記紀の記述によると、古代において、即位礼は正月に行われた記録が多い。これは推古天皇の時代に中国大陸から暦の知識が輸入されるとともに、中国大陸の例に倣って正月即位の形が恒例化されるとともに、それ以前の即位礼もそれにあてはめ、その多くが正月の日付を与えられたのではないかとされる[3]

一方、大嘗祭は天皇が大嘗宮にこもり、天孫降臨時のニニギノミコトを模すことによってニニギノミコトが天照大神から受けた霊威を新たに得ることであり、元は冬至の頃(太陽太陰暦では11月頃)に行われる忌籠りの祭祀であったとされる[4]

古代における両儀式の次第が詳細に記録されているのは、朱鳥4年(689年)の持統天皇の皇位継承に関する記述である。この時の一連の儀礼は、次の手順で行われた。

正月1日、石上麻呂が大盾を樹て、神祇伯の中臣大島天神寿詞を読み、忌部色夫知が神器の天叢雲剣八咫鏡を奉った。公卿百寮は羅列して八開手を打って拝礼した。翌2日、元旦朝賀と同様の拝賀が行われた。中国風の儀式を取り入れ、焼香を行い、公卿百寮が拝礼し、万歳を奉唱した。

翌朱鳥5年11月24日、大嘗祭が行われた。この日は冬至にあたった。25日、中臣大島は再び天神寿詞を再び詠んだ。28日、饗宴が行われた。

即位礼と大嘗祭とで天神寿詞が二度読まれたことから、古来は大嘗祭の翌日に即位礼が行われており、時代が下るにつれて即位礼が正月に移動したのではないか、とされる。これらから、陽光(天照大神)が弱まった冬至の日に天皇が忌籠り大嘗祭を行い、翌日大神の霊威を得て「ハレ」の状態となった新帝が即位礼を行うのが本来の形であったと思われる[5]

その後、平城天皇の時から、先帝が位を退くと同時に直ちに新帝が践祚し、神器を受け継ぐことになった(践祚・即位の分離)。


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