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百科全書の刊行後、これに刺激を受けて各国で百科事典が刊行されるようになった。1768年にはスコットランドのエディンバラにおいて「ブリタニカ百科事典」の刊行が開始され[14]、1796年にはドイツのライプツィヒでブロックハウス百科事典が刊行を開始した。1829年にはフィラデルフィアでアメリカ大百科事典の刊行が始まるなど、19世紀中はアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツなどで百科事典の刊行が行われるようになった。こうした百科事典の編纂はしばしば強力な個性を持つ編纂者によって推進された。たとえばフランスにおいては、ピエール・ラルースが1863年から1876年にかけて「19世紀大百科事典」を刊行したが、これはほぼ自らの一生をかけたものであり、ラルース自身は刊行が完了する前の1875年に死亡した[18]。この19世紀百科事典は彼の名を取ってラルースと呼ばれるようになり、以後もこのラルース百科事典は大規模な百科事典の一つとして長く存続している。
20世紀に入るとさらにそれまで百科事典の刊行されていなかったスペインや日本、イタリアなどの新興国や中小国でもさかんに百科事典の刊行が開始されるようになった。この時期に各国で競って百科事典が刊行されたのは、知の集大成たる百科事典を自国で刊行することによって国威を発揚するといった、国家間の競争の意味合いが存在した[19]。
近代以後の日本の百科事典平凡社 世界大百科事典
近代の日本では、明治の文明開化の時期に西周によって『百学連環』という日本初の百科事典が作られた。他に小中村清矩らの尽力で成立した『古事類苑』がある。1879年、当時の文部省により編纂が開始され、後には神宮司庁が引き継いで1914年に完成された。各時代の事物についての古文献を集成したため、資料的価値が高い。
しかし、西洋式の近代的な百科事典としては、明治末に三省堂から刊行が開始された『日本百科大辞典』(全10巻、齋藤精輔の編纂で1907年刊行開始、1919年完結)が最も早いものである[20]。ついで昭和初期からは平凡社の『大百科事典』(1955年に『世界大百科事典』へ改題)(全28巻、1931年刊行開始、1934年完結)などが発刊された。新たに「辞典」ではなく「事典」という語を作り出して書名に使用したのは、この平凡社のものが最初で、以後「百科事典」という漢字表記が一般化する。
さらに昭和期の高度経済成長を経ると1960年代頃には各家庭に分冊の百科事典が置かれているのは珍しい風景ではなくなり、大衆化を果たした。平凡社からは、1961年に『国民百科事典』[21](全7巻)、学習研究社からは、1965年に『現代新百科事典』(全6巻)[22]、小学館からは、1962年に『日本百科大事典』[23](13巻、別冊)、続いて1965年に『世界原色百科事典』[24](全8巻)、さらに1967年には『大日本百科事典ジャポニカ』(18巻、別巻4)が発行された。各社から次々と百科事典が刊行され人々もそれを求めたこの時期を指して、百科事典ブームと呼ぶ[25]。
こうした百科事典は書店の店頭販売だけではなく、セールスマンによる訪問販売も盛んに行われた。1970年前後には、強引な百科事典の販売が社会問題となり[26]、このことがきっかけに夜間訪問の禁止など訪問販売のルールの原型が作られた[27]。この時代、百科事典は実用面よりも応接間の飾りやステータスシンボルとしての役割を果たしていたが、場所を取ることもあり、百科事典ブームが終息した後では大部の百科事典はあまり家庭では歓迎されなくなり、廃棄処分されることが多くなった。
百科事典と比較すれば一つの項目あたりの記述の内容も簡易で文字数も少ないが広く各分野にわたる用語の辞典と呼べる出版物として、1948年に自由国民社から『現代用語の基礎知識』が毎年発行されるようになり[28]、流行・世相をふんだんに取り入れた時代風俗を映す年刊の資料集的なものも市場に現れるようになった。