この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
出典検索?: "百田宗治"
百田 宗治(ももた そうじ、1893年1月25日 - 1955年12月12日)は大正・昭和期の詩人、児童文学者、作詞家。本名は百田宗次。少年時代の号は楓花。現在の大阪府大阪市西区新町出身[1]。童謡『どこかで春が』(草川信作曲)の作詞で知られる。 高等小学校卒業後、フランス語を独学する[1]。1911年ごろより詩を書き始め、1915年に個人雑誌『表現』を発行。翌1916年に詩集『一人と全体』を発表[1]。詩の傾向としてはホイットマンやロマン・ロランの影響を受けた人道主義的・民主主義的傾向で、1918年に創刊された『民衆』を契機として、富田砕花や白鳥省吾とともに民衆詩派の一員として数えられるようになる[1]。 新潮社が創刊した「日本詩人」の編集にあたり、1926年に発刊した『椎の木』では三好達治、丸山薫、伊藤整、春山行夫、阪本越郎など若手詩人を起用し、一時代を築いた[1]。その頃から、モダニズムを取り入れた俳句系の詩風へ変化[1]。1932年ごろより児童詩・作文教育に携わるようになり、波多野完治、滑川道夫、巽聖歌ら作文教育の指導者を育てた[1]。戦中期には報道部員として大陸に渡った。東京大空襲で家を焼かれ、戦後間もない時期は3年ほど北海道に転住。1953年からは千葉県に住み、終の棲家とした。墓所は、千葉県南房総市(旧・安房郡富山町)高崎の寿楽寺[1]。 東京大空襲により家を焼かれた百田は北海道で疎開生活を送ったが、その間、上川郡愛別町安足間にある万葉寺の住職・白川了照と親しかったことから、同地を何度も訪問した[2]。一時期は同地への永住を考えていたようで、安足間への思いを寄せた詩を残している。万葉寺には百田直筆の「どこかで春が」の書など多数の遺品が保管されている[2]。 また、旭川・紋別自動車道の愛山上川IC?上川層雲峡IC間にある橋梁「百田橋」「宗治橋」からも、この地と百田の関係をうかがい知ることが出来る。
来歴
北海道上川郡愛別町との縁
著作
愛の鳥 百田楓花 田中書店 明44.1
夜 短檠社 明45.7
最初の一人 詩集 短檠社 1915
『表現』(1915年)
一人と全体 詩集 表現発行所 1916
ぬかるみの街道 詩集 大鐙閣 1918
百田宗治詩集 現代詩選 第1 新潮社 1920
新月 玄文社詩歌部 1921
風車 新潮社 1922 (現代詩人叢書)
青い翼 大鐙閣 1922
静かなる時 詩集 新潮社 1925
北風と薔薇 金星堂 1926 (金星堂刊行抒情詩集叢書)
『椎の木』(1926年)
詩の鑑賞 附・西欧近代詩の知識 厚生閣書店 1927