醜類漸盛,遂見凌逼,構怨連禍,三十餘載,財殫力竭,轉自孱?,若天慈曲矜,遠及無外,速遣一將,來救臣國
醜類(高句麗)はようやく隆盛になり、ついに(我が百済を)侵略するようになりました。(このように)怨みを重ね禍いを連ねること三十余年になり、(百済は)財力も戦力も使いはたし、しだいに弱り苦しんでいます。
もし天子が弱くあわれな者に慈悲深く、(その慈愛が)はてしなく遠くまで及ぶのでしたら、速やかに一人の将軍を派遣して、臣の国を救ってください。
?『三国史記』百済本紀/蓋鹵王18年 井上秀雄訳[23]。
しかし、中国が南北朝時代にあった当時、百済は伝統的に中国の南朝と通交していた。北魏は高句麗がより熱心に遣使していることに触れ、百済への支援は提供されなかった。蓋鹵王21年(475年)には高句麗の長寿王が自ら率いた大軍によって王都漢城を包囲され、敗勢が決定的となった。蓋鹵王は脱出を試みたが捕縛され殺害された[24]。漢城陥落は『三国史記』と『日本書紀』、そして書紀が引用する『百済記』で言及されている。
二十一年,秋九月,麗王巨l,帥兵三萬,來圍王都漢城,王閉城門,不能出戰,麗人分兵爲四道夾攻,又乘風縱火,焚燒城門,人心危懼,或有欲出降者,王窘不知所圖,領數十騎,出門西走,麗人追而害之
二十一年(475年)秋九月、(高句)麗王巨l(長寿王)は三万人の軍隊を率いて、王都の漢城を包囲した。
王は城門を閉ざし、(城を出て)戦うことができなかった。麗軍は、軍隊を分けて、四つの街道を通って、挟み撃ちにした。
また風に乗じて火を放ち、城門を焼いたので、(城内の)人たちはあやぶみ懼れ、あるものは(城を)出て降伏しようとする者もいた。王は追い詰められてどうしてよいかわからず、(ついに、)数十騎を率いて(城)門を出、西方に逃走した。麗軍が(王を)追撃して、これを殺害した。
?『三国史記』百済本紀/蓋鹵王21年 井上秀雄訳[23]
廿年冬,高麗王,大發軍兵,伐盡百濟,爰有小許遺衆,聚居倉下,兵糧既盡,憂泣茲深...百濟記云,蓋鹵王乙卯年冬,狛大軍來,攻大城七日七夜,王城降陷,遂失尉禮,國王及大后,王子等,皆沒敵手
(雄略天皇)二十年冬、高(句)麗王が大軍をもって攻め、百済を滅ぼした。その時少しばかりの生き残りが倉下(へすおと)に集っていた。
食料も尽き憂え泣くのみであった。...百済記に云わく「蓋鹵王の乙卯年冬、狛(高句麗)の大軍が来た。大城を攻めること七日七夜、王城は陥落し遂に尉礼(百済)の国を失った。王及び大后王子たちは皆、敵の手に没した。」
?『日本書紀』巻14/大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)/20年冬
学者の中にはこの時一度百済は滅亡したと評する者もおり[24]、そうでなくても首都失陥は百済の歴史上重大な出来事であり、現代では475年を百済史の区切りとしている。
中期:熊津時代(475?538年)百済の金冠、武寧王陵の副葬品の一部。
王都漢城を失った475年当時、王子文周は救援を求めるために新羅に派遣されていた。彼は新羅の援軍を連れて帰還したが、既に漢城は陥落しており、翌月に文周王として即位した。
彼は都を南方の熊津(現・忠清南道公州市)に遷し、百済を復興した[25][26]。この時、高句麗から逃れた貴族たちが熊津に流入し、王族と共に主要官職を抑えていた解氏なども加わっていた[25]。文周王は王弟昆支を内臣佐平、解仇を兵官佐平にあてたが、昆支が死ぬと解仇が実権を握り、478年には解仇によって暗殺された[25]。太子三斤が即位したが、わずかに13歳であり、軍事的、政治的な権限は完全に解仇の手に渡った[25]。にもかかわらず、翌年には解仇が恩率(第二等官位)燕信とともに反乱を起こした。三斤王はかつて腆支王の即位に反対したため権力から遠ざけられていた別の貴族真氏を登用してこれを討伐した[27]。この時の反乱で動員された百済の兵力は、『三国史記』の記述によるならば2,500名あまりであり、反乱した解仇側の兵力は不明であるがこれと大差ないものと見られている[28]。この兵力の少なさは、漢城周辺を失った百済がいかに弱体化していたかを証明しているものであろう[28]。
479年、東城王が即位すると、百済は復興へ向けて大きく変化し始めた。一つは漢城時代に権勢をふるった解氏、真氏などの伝統的な中央氏族に代わり、新たな氏族が多数高位官職に進出し始めるとともに、王権が強化され王族や貴族への王の統制力が向上したと見られることであり[29]、今一つは南方地域への拡大である[29]。東城王は新羅と結んで高句麗の軍事的圧迫に対抗する一方、小国が分立していた伽耶地方への拡大を図った[29]。
権力闘争の中で東城王が暗殺された後、501年に即位したのが武寧王である。彼は1971年に発見された武寧王陵から多様な副葬品が出土した事で名高い。熊津を中心とする百済を更に発展させるため、武寧王は南朝および倭国との関係を深め、更に領内の支配強化を目指した[30]。彼は領内に22の拠点を定め、王の宗族を派遣して地域支配の強化を進め、南西方面での勢力拡張を図った[30]。『日本書紀』には、この頃に日本から百済へ任那四県[注釈 3]を割譲したという記録があり、これは百済の政策と関係するものと考えられている[30]。ただしこの頃に実際に倭国が任那四県に支配力を及ぼしていたかどうかについては、懐疑的な見方が強い[注釈 4]。513年には伽耶地方の有力国伴跛から己?、帯沙を奪い[32][30]、朝鮮半島南西部での支配を確立すると東進して伽耶地方の中枢に迫った[33]。
武寧王はこの時期には対外活動も活発に行っており、南朝の梁に新羅使を同伴して入朝し、新羅や伽耶諸国を付庸していることを語り、倭国へは南方進出の了解や軍事支援と引き換えに五経博士を派遣し始めた[33]。以後、倭国への軍事支援要請と技術者の派遣は百済の継続的な対倭政策となっていく[33]。 武寧王の跡を継いだ聖王は回復した国力を背景に538年都を熊津から泗?(現・忠清南道扶余郡)に遷した[34][35]。泗?は熊津と同じく錦江沿いにある都市であるが、山に迫る要害の地であり防御に適した熊津に対し、泗?は錦江下流域の沖積平野を見下ろす丘陵地帯であり、水陸の交通の要衝であった[34]。国号も南扶余と改められた。この国号は国際的に定着することはなかったが、百済には高句麗と同じく夫余を祖とするという伝承があり、高句麗への対抗意識を明瞭にした国号であった[35]。 また、伽耶地方では百済が西側から勢力を広げる一方、同じく伽耶の東方から勢力を拡張していた新羅との間で軋轢が生まれた。更に伽耶地方を一種の藩屏と見做す倭国、生き残りを図る伽耶諸国の間で複雑な外交が繰り広げられたと考えられる[36]。伽耶地方の中心的国家であった金官国 伽耶を巡って新羅との利害関係の不一致が顕在化する一方、北側では550年頃、国境地帯の城の奪い合いを切っ掛けに高句麗と全面的な衝突に入り、百済の情勢は極めて悪化した。この時期に倭国に向けて兵糧、武具、軍兵の支援を求める使者が矢継ぎ早に派遣されたことが『日本書紀』に見える[38][39]。
後期:泗?時代(538?642年)
伽耶争奪と遷都
新羅の強大化と外交関係