百人一首
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百人一首のかるた読み札
(天智天皇)

百人一首(ひゃくにんいっしゅ)とは百人の和歌を一人につき一首ずつ選んで作られた秀歌撰(詞華集)。百人首(ひゃくにんしゅ)とも言われる[1]

藤原定家京都小倉山の山荘で鎌倉時代初期に揮毫した小倉山荘色紙和歌に基づくものが「歌がるた」として広く用いられ、後世に定着して小倉百人一首(おぐらひゃくにんいっしゅ)と呼ばれている。
概要小倉色紙(蝉丸)

小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家藤原定家が選んだ秀歌撰であると考えられている[2]。大山和哉によれば、その原型は、鎌倉幕府御家人で歌人でもある宇都宮蓮生の求めに応じて、定家が作成した色紙であり、蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘(中院山荘)のの装飾のため、定家に色紙の作成を依頼したものとされる[2][3]天智天皇から藤原家隆藤原(飛鳥井)雅経に至る歌人の歌を色紙に書いて送ったことが定家の日記「明月記」(文暦2年(1235)5月27日条)に記載されており[注 1]、その草稿本といわれる「百人秀歌[注 2]と97首が一致していることから、これが百人一首の選定の来歴を示すものと考えられている[3]。現代伝わる百人一首は100人の歌人の優れた和歌が一首ずつ選ばれ、年代順に配列されたものであるが、百人秀歌は歌合方式で記録され必ずしも年代別に配列されておらず、また後鳥羽院順徳院の2首は明月記の記録や「百人秀歌」には含まれていないことから、後に藤原為家が補綴したという説がある[3]

小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定されており、定家の日記『明月記』の文暦2年5月27日(ユリウス暦1235年6月14日)の条には「古来の人の歌各一首」を書き送った旨の記述がある。ただし、この時に書き送った物が『百人一首』であったとする確証はなく、学術的には百人秀歌が先行したのか百人一首が先行したのかは難しい論点を含んでいる。また宇都宮蓮生が選んだという説(安藤為章)や、逆に小倉色紙は宇都宮蓮生の別荘にではなく、定家の嵯峨(小倉)山荘に用いられたとの説(冷泉為村)もある[4][注 3]。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。

室町時代後期に連歌師の宗祇が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。江戸時代に入り、木版画の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。

小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『百人秀歌』がある。百人秀歌は百人一首が歴年順で提示されるのに異なり歌合形式で配列されたものと考えられており、101人の歌人から一首ずつ101首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「後鳥羽院順徳院の歌が無く、代わりに一条院皇后宮権中納言国信権中納言長方の歌が入っていること、2) 源俊頼朝臣の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。その他にも百人一首とテキストの異なる箇所が複数指摘されている。

いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は子孫に受け継がれ、室町時代に茶道が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。戦国時代の武将・宇都宮鎮房豊臣秀吉配下の黒田長政に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が豊前宇都宮氏に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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