白木屋_(デパート)
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この出店契約は売上歩合制とすることでその売上実績を把握し[10]ターミナルデパートの経営成功するかどうかを判断する材料とすることを狙った小林一三の考えによるものであったため、期間満了を理由として契約が解除され[10]、1925年(大正14年)4月30日限りで閉鎖し返還することになった[8]

梅田阪急ビルには同年6月1日に2・3階に[11]自社直営の食料品や生活雑貨中心のスーパーに近い形態[12]の阪急マーケット[11]、4・5階に直営の阪急食堂を移設して開業し[13]、1929年(昭和4年)4月15日には鉄道会社直営=電鉄系百貨店として初の阪急百貨店を開業しており[11]、ターミナルデパートにつながるものとなった。

1923年(大正12年)5月15日には神戸市湊川の神戸実業銀行内に神戸出張店を開設し、関東大震災で被災した日本橋本店の営業再開までの間には大阪と神戸に本店から58名を転勤させて営業力の強化を目指すなど関西での営業にも力を入れた[6]

しかし、神戸出張店の業績が伸び悩んで1927年(昭和2年)3月に撤退する際に[6]約16万円という当時としては巨額な損失を出した[9]ほか、大阪支店も繁華街が堺筋から、地下鉄御堂筋線を伴って開通した御堂筋沿いに移ってしまい、赤字が続いた。このため、1932年(昭和7年)7月に大阪支店も閉鎖して関西から全面的に撤退することになった[14]
関東大震災での本店の被災

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で、本店が全壊する大きな被害を受けた[6]

震災から2か月後の同年11月1日には日本橋本店の仮建築を完成させて再開するなど、早期の再開を目指した[6]

ところがその後、東京市の復興計画の遅れから日本橋本店の区画整理の決定が遅くなったため仮建築の期間が長期化し、業績の低迷が長期化することになった[6]

そのため、1926年(昭和元年)と1927年(昭和2年)の2年連続で赤字に陥るなど経営に致命的な打撃を受けることになった[9]
分店・出張店による多店舗展開

白木屋は先述の通り、1920年(大正9年)11月1日に阪神急行電鉄梅田駅ビルや東京・丸の内の海上ビル(現・東京海上火災ビル)にも丸の内出張所を開設するなど早くから小型店舗の展開を進めていた[6]

1923年(大正12年)3月には東京・丸の内の丸の内ビルヂング(現・丸の内ビルディング)の竣工に伴って同ビル内に丸の内出張所を開設したほか、同年5月15日に神戸実業銀行に出張所を出店するなど関東大震災前から積極的な多店化が進められていた[6]

また、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の直後も、同月15日に東京・丸の内の丸ビル出張店の営業を再開するとともに同月20日から一階正面左角の三菱商事跡の一角を借り受けて新営業所を開設したほか、九段下牛が淵公園前や四谷塩町停留所前に出張店を開設して日用雑貨などの販売を行って好調な売り上げを上げた[6]

1926年(大正15年)に丸ノ内と四谷出張店を閉店したほか、阪神電気鉄道梅田駅に出店した出張店なども短期間で閉鎖されるなど、店舗の閉鎖も少なくなかった[9]

日本橋本店の再建が遅れることになったため、業績を維持するには仮建築での営業だけでは不可能な状況となっていた[9]

そして、2年連続で赤字に陥ったこともあり、1928年(昭和3年)2月の日本橋本店の本建築による再建第1期工事の落成に前後して分店と呼ぶ小型の店舗をチェーン展開し始めることになった[9]

1927年(昭和2年)3月に神戸出張店を閉鎖した際に[6]約16万円という当時としては巨額な損失を出していたため[9]、不動産を取得して出店することなどの危険性も痛感させられていた[9]

そのため、まず実験的に池上電気鉄道(現・東急池上線)のターミナル駅ビルを賃借して約3万円を投じ五反田分店を出店して、分店を出店することの成否を1か月間で判断することになった[9]

この五反田分店が順調に立ち上がったことから分店の多店舗展開が進められることになった[6][9]


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