ほか 角川春樹が『人間の証明』(1977年)、『野性の証明』(1978年)で付き合いの生まれた岡田茂東映社長に[7][8]、「独立プロ(角川春樹事務所)を離れて、メジャー内部に単独で乗り込んでプロデュースをやってみたい」と依頼[7][9][10][11]。他社からは断られたが[9]、岡田から了解を取って[9]東映を単独で訪れ、『悪魔が来りて笛を吹く』(1979年)、本作『白昼の死角』、『魔界転生』(1981年)の3本をプロデュースした[7][9][12][13][14][15][16]。角川自身、「角川春樹事務所を離れて」と語っており[7]、この3本は角川映画ではなく東映映画である[1][7]。角川映画の番頭だった古澤利夫(藤峰貞利)は、「春樹さんはプロデューサーとして参加していますが、製作の主導は東映です」と述べている[15]。 映画の製作が最初に報道されたのは1978年春[17]。当時の『キネマ旬報』には、『白昼の死角』の映画化を構想しているのは東映で[17]、「角川書店が高木彬光フェアを予定していることから提携も方法も考えている」と記述されている[17]。この高木彬光フェアの計画に東映の岡田社長が乗った[1]。また主役候補として渡哲也が挙げられている[1][17]他、1978年10月の複数の文献には松方弘樹の名前も挙がっている[1][18][19]。松方は1974年のNHK大河ドラマ『勝海舟』で知り合った仁科明子との不倫スキャンダルでマスメディアに大きく取り上げられたが、松方が前妻と1978年7月に離婚したことから、松方+芸能活動を休止していた仁科を芸能界にカムバックさせようという動きが伝えられ、松方の後見人・岡田茂や角川春樹からオファーされたが[18][19]、松方が難色を示し流れていた[1][18][19]。 脚本の神波史男は「元々の原作が長く、シナリオを切るのが困難だった」などと語っている[20]。 1978年12月30日、東京帝国ホテルで記者会見が行われた[12][14]。席上、角川春樹が「高木彬光氏の原作は2000万部売れており、氏は"角川第三の男"です。氏の作品は昔、大映で『密告者』が映画化されて以来のものですが、いい作品になればと思っています」などと話した[12]。高木は「小説を書きだして31年位になりますが、『白昼の死角』程の悪党を書いたことはないです。これまで映画化の企画があり、こんな悪党をスクリーンで見せられないという理由で潰れてきただけに、今回の話はうれしいです」などと話し[12][14]、村川透監督は「今までは3000万円映画しか撮ったことがなかったので、今回の製作費7億円には、ケタが大きすぎるので実感がわきません」などと話した[12]。東映で初めて大作を任され[13]、豪華俳優を使うことに興奮したという[13]。
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