白居易
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白居易の友人でもあった李紳が、既に新題を設けて楽府作品を作っており、白居易は李紳の新題にあやかって、さらに拡充させたものもあったのだ。このことは、元?の「李校書新題の楽府十二首に和す」の「序」から知ることが出来る。元?のその序によれば李紳は楽府新題二十を設定し、そのうち十二に、元?が和したという(李紳の作品は、現在一首も残っていない)。元?が和した十二首は、『元氏長慶集』に見られ、その十二首の題は、すべて白居易の「新楽府」五十首の中に含まれている[15]

「与元九書」において、「諷諭」の姿勢の必要を説いていた白居易であったが、『白氏長慶集』の編集された長慶四年(824年、白居易五十三歳)以後、中唐文学において「諷諭」の姿勢は急激に萎え、彼もまた諷諭詩人たることをやめたのである[16]
日本への影響

白居易の詩は中国国内のみならず、日本や朝鮮のような周辺諸国の人々にまで愛好され、日本には白居易存命中の承和5年(838年)に当時の大宰少弐であった藤原岳守が唐の商人の荷物から“元白詩集”(元?と白居易の詩集)を見つけてこれを入手して仁明天皇に献上したところ、褒賞として従五位上に叙せられ[17]、同11年(844年)には留学僧恵萼により67巻本の『白氏文集』が伝来している。平安文学に多大な影響を与え、その中でも閑適・感傷の詩が受け入れられた。菅原道真の漢詩が白居易と比較されたことや、紫式部上東門院彰子に教授した(『紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品においても、清少納言は『枕草子』にて「文は文集[18]、文選、はかせの申文」と述べ、紫式部は『源氏物語』「桐壺」のほとんど全般にわたり、白居易の「長恨歌」から材を仰いでいることなどからも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがえる[19]。白居易自身も日本での自作の評判を知っていたという[20]。また、彼の作品は彼の死後も日本で愛された。1013年頃に日本で成立した『和漢朗詠集』には、漢詩句588首のうち、彼の作品は136句あり、詩句では最多である。次の作品編では、『和漢朗詠集』にもある作品を取り上げている。彼の詩が解りやすい表現で書かれているということはそこで確認してみてほしい。

平安朝の日本でこれだけ白居易がもてはやされたのにはいくつかの原因が考えられるが、佐藤一郎は「やはり平易な作風を挙げないわけにはいかない[21]」と評している。原因の第二には平安朝の宮廷人たちの、ひとつの理想が白居易の生涯であること。天子にその能力を見出されて比較的低い階層から、しかるべき地位に昇進したことは、ごく少数の家格の貴族以外には、やはり希望を抱かせるに足る官僚としての生き方であった。第三には『白氏文集』が平安貴族たちにとって、一種の百科事典のような役割を果たしていたことが考えられる。この白居易の詩文集には、あまり極端な片寄りがなく、ほぼ詩文のあらゆるジャンルとあらゆる題材を、観念的にではなく取り上げているからである。第四には日本の詩歌と同じく『白氏文集』には雪月花が多く主題となっていること。第五には白居易は平安貴族と同じく仏教信者であるとともに風流人であり、もののあはれの精神の理解者であることが挙げられる[22]
作品秋の庭掃(はら)はず 藤枝(とうちやう)に携(たづさは)りて、閑(しづ)かに梧桐(ごとう)の黄葉(くわうえふ)を踏んで行(あり)く

[23]遺愛寺(いあいじ)の鐘(かね)をば枕を欹(そばだ)てて聴く、香炉峯(かうろほう)の雪をば簾(すだれ)を撥(まきあ)げて看(み)る

[24]
禅僧との交流

白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の佛光如満や興善惟寛らの禅僧と交流があった。惟寛や浄衆宗に属する神照の墓碑を書いたのは、白居易である。

景徳伝灯録』巻10では、白居易を如満の法嗣としている。その他、巻7には惟寛との問答を載せ、巻4では、牛頭宗鳥?道林741年 - 824年)との『七仏通誡偈』に関する問答が見られる。但し、道林との有名な問答は、後世に仮託されたものであり、史実としては認められていない。
元?との交流

二人が知り合ったのは、二人が史部の試験に合格した貞元十九年(803年)の頃であった[25]。この最初の出会いのことを白居易は、「書に代うる詩一百韻 微之(元?の字)に寄す」という二百句に及ぶ長い詩の冒頭に、「億う 貞元の歳に在りて 初めて典校の司に登る 身名同日に授けられ 心事一言に知る」(思い返せば貞元の世、登第して校書郎になったばかりの時。栄えある名を君と同じ日に授けられ、胸に思うことは一言で通じ合えた。という意。)と記す[26]。さらに別の「元?に贈る」詩の最後の四句「登科を同じくする為ならず 署官を同じくする為ならず 合う所は方寸に在り 心源に異端無し」(我々は登第も同じ、官職も同じ出会ったけれども、それが理由で友となったわけではない。心が深いところでぴったり一致するのだ。という意)と示している[27]。白居易は、この他にも、元?に関わる詩を多く詠っている。

元?が元和五年二月に、河南尹の房式を、不法のことをしたと言って御史台に拘置して、執務を停止させたのだが、この元?の行為を監察御史が「自分勝手に職務を行ったやりすぎた行為だ」として問題視したことがあった。この事件は、結局房式が罰俸一月の処分を受け、元?はそれより重い罰俸三月に処され、さらに長安に召され江陵に左遷まで告げられてしまったのだが[28]、白居易はこの件に関し、元?を弁護し、この処置に抗議する文章を三回も上奏した。第三回目の文章「元?を論ずる第三状」(1965年)は、『白氏文集』の四十二巻に収められている[29]。平岡武夫は「白居易の異議申立てが、発令の後すぐに行われ、また短い期間に三度繰り返し為されることから、これは勇気ある行為であり、二人の間に熱い友情が躍如している」と評している[30]

二人のこのような交流は、元?が大和五年(831年)五十三歳で亡くなるまでの約三十年間、ひとときも揺るぐことなく続いた[26]


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