登米郡(とめぐん)は、宮城県(陸奥国・陸前国)にあった郡。 1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、登米市の大部分(津山町各町を除く)にあたる。なお、登米市石越町各町が1877年、登米市南方町各町および迫町新田、迫町北方が1878年まで栗原郡に所属した。 宮城県第4大区(全16小区。栗原郡・登米郡13?16)
郡域
歴史
近代以降の沿革
幕末時点では陸奥国に所属し、全域が仙台藩領であった。当時の郡名の読みは「とよま」。「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での村は以下の通り。(24村)
吉田村、寺池村、森村、小島村、日野渡村、日根牛村、楼台村、米谷村、狼河原村、西郡村、浅部村、嵯峨立村、水越村、加賀野村、大泉村、石森村、弥勒寺村、黒沼村、桜場村、上沼村、新井田村、鱒淵村、鴇波村、赤生津村
明治元年
9月24日(1868年11月8日) - 戊辰戦争で仙台藩主伊達慶邦が薩長軍に降伏し、全領土62万石を没収される。
12月7日(1869年1月19日)
陸奥国が分割され、本郡は陸前国の所属となる。
登米郡は常陸土浦藩取締地となる。
明治2年
3月22日(1869年5月3日) - 土浦藩取締地が涌谷県を称する[1]。
8月7日(1869年9月12日) - 登米県(とめけん)の管轄となる。
明治4年
11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により一関県(第2次)の管轄となる。
12月13日(1872年1月22日) - 一関県(第2次)が水沢県に改称。
明治8年(1875年)
10月17日 - 以下の各村の統合が行われる。(13村)
登米村(とよまむら) ← 寺池村、小島村、日野渡村、日根牛村
米川村 ← 狼河原村、鱒淵村
錦織村 ← 西郡村、嵯峨立村
浅水村 ← 浅部村、水越村
田沼村 ← 新井田村、黒沼村
潤沼村 ← 赤生津村、鴇波村
上沼村 ← 上沼村、大泉村、弥勒寺村
米谷村 ← 米谷村、楼台村
11月22日 - 水沢県が磐井県に改称。
明治9年(1876年)
4月18日 - 第2次府県統合により宮城県の管轄となる。
11月 - 区の再編により、栗原郡と共に宮城県第4大区となる。
小区所属村
小13区吉田村、潤沼村
小14区登米村、浅水村、田沼村
小15区石森村、上沼村、桜場村、森村
小16区米谷村、米川村、錦織村
明治10年(1877年) - 栗原郡石越村の所属郡が当郡に変更。
明治11年(1878年)
潤沼村を赤生津村・鴇波村に分割。
10月21日 - 郡区町村編制法の宮城県での施行により、行政区画としての登米郡が発足。郡役所が北方村の佐沼城下町に設置。同時に郡名の読みを「とよま」から「とめ」に改める。同日大区小区制を廃止。
明治12年(1879年)
登米村から日根牛村が分立。
米川村が狼河原村・鱒淵村に分割。
錦織村が西郡村・嵯峨立村に分割。
栗原郡北方村・南方村・新田村の所属郡が登米郡に変更。
明治13年(1880年)1月17日 - 遠田郡西野村・中津山村の所属郡がを登米郡に変更[2]。
町村制以降の沿革1.佐沼町 2.北方村 3.南方村 4.米山村 5.吉田村 6.豊里村 7.登米町 8.浅水村 9.米谷村 10.米川村 11.錦織村 12.上沼村 13.宝江村 14.石森村 15.石越村 16.新田村(赤:登米市)
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により、以下の町村が発足[3]。全域が現・登米市。(2町14村)
佐沼町 (北方村の一部[4]が単独町制)
北方村 (北方村の一部[5]が単独村制)
南方村 (単独村制)
米山村 ← 西野村、中津山村
吉田村 (単独村制)
豊里村 ← 赤生津村、鴇波村
登米町 ← 登米村、日根牛村