ある主張が反証可能であることの明確な必要性を示しているもう一つの例は、カール・セーガンの著書『悪霊にさいなまれる世界(英語版)』の中で、彼がガレージに飼っている不可視のドラゴンについて論じた際に述べられた。そこでは、このドラゴンが存在するという主張を否定する物理的な検証方法は存在しないことが指摘されている。いかなるテストを考案しようと、不可視のドラゴンには当てはまらないための理由があるため、最初の主張が誤りであることを実証できないのである。セーガンは次のように結論づける。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}さて、熱のない炎を吐き、肉体を持たず、目に見えない空飛ぶドラゴンと、ドラゴンが完全に存在しないことの違いはなんだろうか?
彼は、「私の仮説が誤りであることを示せないことは、それが真実であると証明することとまったく同じではない」と述べ[30]、そのような主張が真実であったとしても、それは科学研究(英語版)の範疇には入らないと説明した。
マートンの規範詳細は「マートンの規範(英語版)」を参照
1942年、ロバート・K・マートンは、真の科学とは何かを示す5つの「規範」を明らかにした。彼は、これらの規範のいずれかに違反している試みを非科学的なものと捉えた。なお、これらの規範は、科学界で広く受け入れられているものではない。 1978年、哲学者のポール・サガード ポール・ファイヤアーベントなどの科学哲学者は、科学と非科学を区別することは不可能かつ望ましいことではないと主張した[35][注釈 2]。科学と非科学の区別を困難にしているのは、科学理論や方法が新たなデータに応じて進化する速度が異なることである[注釈 3]。ラリー・ラウダン
独創性: 実験や研究は、科学界に新しい何らかのものを提示しなければならない。
分離性: 科学者がその科学を実践する理由は、単に知識の拡大のためでなければならない。科学者は、ある結果を期待する私的理由を持ってはならない。
普遍性: ある人が他者よりも容易にテストの情報を得ることができてはならない。社会階級、宗教、民族、その他の個人的要因が、ある種の科学を受け取ったり、実行したりする能力に影響を与えるべきではない。
懐疑心: 科学的事実は信仰に基づいてはならない。すべての事例や議論に疑問を持ち、誤りや根拠に乏しい主張がないかを常に確認すべきである。
開放性: 取得した科学的知識は、すべての人に利用可能にすべきである。また、研究結果は公表され、科学界で共有されるべきである[31]。
問題認識の拒否
用語に対する批判
同様に、リチャード・マクナリー(英語版)も次のように述べている[39]。「疑似科学」という言葉は、メディアのサウンドバイトにおいて、相手を素早く否定するための扇動的なバズワードに過ぎなくなっている。医療分野の起業家が自身の治療法を主張するとき、我々は彼らの治療法が疑似科学的であるかどうかを判断することに時間を費やすべきではない。むしろ、我々は彼らに次のように尋ねるべきである。「その治療介入が効果的であるということをどのように知ったのか?エビデンスはあるのか?」と。 哲学者のシルビオ・フントヴィッチ
その他の定義
指標「疑似科学とみなされているものの一覧(英語版)」も参照ホメオパシーで使用されるレメディの一つである「ルス・トキシコデンドロン」。ツタウルシから抽出される。
科学研究の規範を遵守しているように示されているにもかかわらず、明らかにその規範を遵守していない場合、その主題・実践・知識体系は疑似科学と呼ばれる可能性が高い[1][41]。以下は、その指標を列挙したものである。
不明瞭・大言壮語・検証不可能な主張
正確ではなく漠然としており、具体的な測定結果が欠如している科学的主張[42]。
説明力がない、あるいはほとんどない主張[43]。
操作的定義(英語版)を行っていない。操作的定義とは、定義者以外の人が独立して測定、またはテストできるように、対象となる変数、用語、または関心対象を公開することである[注釈 4]。再現性の項目も参照。
倹約の原則を合理的に適用していない。つまり、複数の有効な説明が可能な場合に、可能な限り追加の仮定を必要としない説明を求めることを怠っている[45]。詳細はオッカムの剃刀を参照。
蒙昧主義的な言葉遣いをしており、主張に科学的な装いを持たせるために専門用語を濫用している。
境界条件が欠如している。十分に信頼できる科学理論の大多数は、予測される現象が適用される場合とそうでない場合の境界条件を明確にしている[46]。
実験計画において、プラセボや二重盲検などの効果的な対照実験が欠如している。
物理学や工学における基本的かつ確立された原理に対する理解が不足している[47]。
反証よりも確証へ依存している
観測か物理的実験によって誤りであることが示されるという論理的可能性を許容しない主張[28][48]。反証可能性の項目も参照。
ある理論が、その理論が予測するということが示されていない何らかのものを予測しているという主張[49]。予測力を与えない科学的主張は、よい場合では「思い込み」、悪い場合では「疑似科学」とみなされる[50]。論点のすり替えも参照。
誤りであることが証明されていない主張は、それゆえに真実であり、その逆もまた然りであるという主張[51]。詳細は無知に訴える論証を参照。
証言や事例証拠、または個人的な経験に過度に依存している。このような証拠は、発見の場面(すなわち、仮説形成の段階)では有用かもしれないが、正当化(英語版)の場面(たとえば、統計的仮説検定)では使用すべきではない[52]。
主張を支持するようなデータを提示する一方で、対立するデータを抑制したり考慮したりしていない[37]。これは選択バイアスの一例であり、データの収集方法に起因する証拠やデータの歪曲である。選択効果と呼ばれることもある。
過去に他の場所で公表された過剰な主張や未検証の主張を繰り返し、あたかも真実であるかのように喧伝している。独自の経験的調査を行わない、このような無批判な二次報告の蓄積は、ウーズル効果と呼ばれる[53]。
立証責任が逆転している(消極的事実の証明)。科学では、主張する側に立証責任があり、批判する側にはない。