イスラム教はそもそもカーバ神殿を異教徒から征服した事から始まっており、異教徒との戦いはジハードと呼ばれ、イスラム教教義の中心的な概念の一つである。
キリスト教「異教徒」および「高潔な異教徒」も参照
聖書では、使徒パウロが「異教徒は(ユダヤ・キリスト教の神の)律法を持っていなくても、心(良心)に律法が刻まれていることがあり、イエスは心にあるものによって人を裁く(ローマの信徒への手紙 2:12-16)」と教えている(Romans 2:12-16)[16]。
歴史的には宗教的排他主義とよばれる立場を取ってきた[17][18]。福音派は今日でも「ローザンヌ誓約」で表明された、神学的排他主義の立場をとるが[17]、エキュメニズムには宗教的包括主義や宗教多元主義という立場もあり、この三つの立場はアラン・レイスの三類型と呼ばれている[19][20][21]。
仏教「邪教」、「邪宗門」、および「外道」も参照
仏教では、仏教以外の宗派の教説を異端と見なし「外道」と呼んでおり、仏教を「内道」と呼んでいる[22]。外道は異教、悪魔や邪道を指すことにも用いられ、人を罵るために使われてきた[23][24]。 道教に傾倒した唐の武宗は道士の提言をいれ、異教徒である仏教の寺院の廃毀と財産没収、僧尼の還俗を断行している[25]。仏教のほかに「唐代三夷教」(マニ教・ゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教)も禁止された[26]。 南朝の顧歓や唐の韓愈たち儒者、道士は、仏教を夷狄の宗教として排仏論を提唱、孟子が〈吾夏をもって夷を変ためし者を聞けども,夷によって変ためられし者を聞かざるなり〉とのべているように、華夏による一方的な教化の対象となるべきものであった[27]。 三武一宗の法難のうち後周を除く三廃仏では、儒教を基本としたうえで、異教徒である仏教勢力の弾圧が認められた[25]。
道教
儒教「三武一宗の法難」も参照