番町政策研究所
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これ以降河本は自身が実質的なオーナーを務める三光汽船破綻の影響や年齢的な問題もあり、名前はたびたび挙がるものの総裁選への出馬は果たせずに終わった。

1989年リクルート事件宇野宗佑首相の愛人スキャンダルの中で行われた7月の参院選で、自民党が過半数割れする敗北を喫し、宇野首相が辞任。総裁選が行われ、海部俊樹竹下派、総裁派閥の中曽根派安倍派の支援を受け、宮沢派の支援を受けている二階堂グループ林義郎と党内浮動票頼みの石原慎太郎を破り総理総裁に就任する。

海部政権は1990年の衆院選に勝利すると、湾岸戦争などの対応に追われながらも比較的高い内閣支持率を維持し、政治改革に強い意欲を燃やした。1991年には、政権を支える竹下派支配と政治改革に対して宮沢派の加藤紘一、安倍派の小泉純一郎、渡辺派の山崎拓らのYKKが反発するなど、党内世論が二分される。海部は解散で対抗することを模索するが、当時の竹下派会長・金丸信からも見放され、海部は首相辞任に追い込まれた。

1993年の(森山眞弓が文相在任中の)宮澤改造内閣不信任案可決後、同派から井出正一簗瀬進が自民党を離党し新党さきがけ結成に参加。翌年には自社連立内閣に反発して海部・野呂昭彦今津寛が離党し自由改革連合結成や新進党結党に参加した(1993年の衆院選で河本派現職として落選した前田正も離党し1996年の衆院選で新進党元職として小選挙区勝利し国政復帰)。
旧河本派?高村派時代高村正彦

1995年5月、派閥名を番町政策研究所に変更。「番町」を冠するのは事務局が紀尾井町にあったためである。

1996年10月に河本敏夫が政界を引退し、翌年2月に派閥会長を退任、名誉会長となる。その後は、谷川和穂坂本三十次らによる集団指導体制を経て、高村正彦が会長に就任。しかし河本が死去する2001年まで「旧河本派」と称されていた。

三木派・河本派から三木と海部の二人が内閣総理大臣に選出されているが、党三役(幹事長総務会長政調会長)には、河本が大平総裁の下で政務調査会長に就任して以降指名されず、国対委員長のポストも海部俊樹から大島理森が就任するまで、24年間も指名されなかった。野田聖子は、旧河本派に属していた1998年7月に史上最年少の37歳10ヵ月で初入閣したが、2003年に派閥を退会。

2006年自民党総裁選では派として安倍晋三を支持し、圧勝に一役買うことになった。安倍を支持する「再チャレンジ支援議員連盟」会長として中堅・若手議員の取りまとめに奔走した山本有二内閣府特命担当大臣(金融・再チャレンジ担当)として初入閣。さらに翌年の松岡利勝の死去を受けて、赤城徳彦農林水産大臣として初入閣したが、政治資金に関する疑惑によって2007年の参院選で自民党が大敗する一因となったため、事実上の更迭という形で辞任した。

2007年8月、山東昭子参院副議長に就任し、党籍と派閥を離脱。同8月27日に行われた内閣改造では、派閥会長の高村が防衛大臣として入閣し、大島理森が国対委員長として執行部入りした。改造してすぐに安倍政権は総辞職となったが、後継の福田政権において高村が外務大臣へ横滑りとなり、大島は国対委員長を再任となった。続く麻生政権では入閣者は出さなかったが、大島は引き続き国対委員長を務め、この間に自民党国対委員長の通算在任日数記録を更新した。

自民党の2009年の総選挙大敗・下野を受けて発足した谷垣禎一総裁体制下で、2009年9月29日に大島が党幹事長に就任し、派閥を一時的に離脱。同年経費節減の為に派閥事務所を移転。

2010年1月、村上誠一郎が離脱[1]。同月、山本有二が新グループ「のぞみ」を立ち上げ退会[1]。同年7月、山東が参院副議長退任に伴い、高村派に復帰した。

2012年春、麻生太郎率いる為公会(麻生派)への合流を視野に勉強会を発足させた[2]。一方、合流すれば改進党以来の特色が失われ歴史に傷が付く恐れがあるため、そのような懸念を取り除いた上での合流が入念に準備されている[3]

同年9月の総裁選では麻生派と協力して安倍晋三を支持し、当初劣勢と見られていた安倍の当選に貢献した。
大島派時代大島理森


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