畠山義就
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翌文正2年(1467年1月18日、両派の軍が上御霊神社において衝突し、義就は宗全や斯波義廉の家臣朝倉孝景の協力を得て政長を破った(御霊合戦)。この御霊合戦により山名方(義就・斯波義廉派。西軍)が有利となったことを危惧し、翌年には細川方(政長・斯波義敏派・東軍)が巻き返しを図った。これらに将軍家、畠山、斯波、山名、京極、土岐、六角、富樫などの諸氏の家督争いや幕府内または諸家内での権力争いなどが複雑に関与し、応仁の乱が勃発する[注釈 4]応仁の乱朝倉孝景(英林)

応仁の乱では義就は宗全率いる西軍に属して政長と戦い、内裏や東寺に陣取り10月3日相国寺の戦い、翌応仁2年(1468年)の東軍足軽大将骨皮道賢討伐にも参戦。西軍きっての戦上手として河内・大和・摂津・山城を転戦、山城の実力支配も行った。文明元年(1469年)に東軍寄りだった山城西部の乙訓郡を占拠(西岡の戦い)、勝竜寺城を根拠として山崎に陣取った西岡国人や山名是豊、河内の政長派などと戦った。

文明5年(1473年)、宗全と勝元が死去したのち、東西両軍の和睦が進められる中、義就は講和に反対していた。文明9年(1477年9月21日に政長討伐のために河内へ下り諸城を陥落、10月9日に政長派の守護代遊佐長直若江城から追い河内を制圧する(若江城の戦い)。越智家栄と古市澄胤らも大和を制圧、政長派の筒井順尊箸尾為国・十市遠清は没落し、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。義就が河内方面に下向後の11月11日、京では東西両軍の間で講和が成立し、西軍諸将は相次いで帰国して解散、応仁の乱は終結した[15][16][17][18][19][20]
河内争奪戦

実際の支配状況はともかく、名目上の河内守護と畠山氏当主は依然として政長のままであり、河内を実質領国化している義就に対して幕府は度々追討令を発したが効果は無く、河内と大和は義就が実効支配したままであった。

文明9年からしばらくは平穏であったが、文明14年(1482年)3月に幕府の命を受けた細川政元と政長連合軍が義就追討に出陣した。義就は7月16日に政元単独と和睦、政元は河内十七箇所と摂津欠郡(東成郡西成郡住吉郡)の交換を条件に自軍を撤退させたが、政長は河内に留まり義就との抗争を継続した。義就は河内から山城国南部に侵入、翌文明15年(1483年)に南山城を掌握し、河内の政長方を掃討して河内の実効支配を確立した(犬田城の戦い)。ただし、主戦場となった山城では義就・政長の争いも膠着状態となって以降、業を煮やした国人衆により文明17年(1485年)に国人一揆が起こり(山城国一揆)、畠山両軍は撤退を要求されたため義就軍は河内に引き上げた。以後も義就に対して幕府から追討令が出されたが、実行されないまま終わった。

延徳2年12月12日(1491年1月21日)、義就死去。享年54。

義就は一時隠居を命じられた際に、短期間であるが能登畠山家出身の猶子の政国に家督を譲ったこともあったが、長男の修羅が生まれると政国を廃嫡して実家に帰し、修羅を後継とした。しかし修羅は義就より先に、文明15年に亡くなった。

義就の死後、孫にあたる修羅の子と次男の基家(義豊)が後継を争ったとされる[注釈 5]、義就の家督と河内・大和の支配は基家が継承した。

政長も河内・大和・山城を失ったものの、残る紀伊と越中国を根拠として対抗、両者は以降も畠山氏当主の座を巡って争った[21][22][23]
偏諱を与えた人物
義就時代


遊佐就家

遊佐就盛

※「就」の読みについては長らく「なり」(毛利元就などと同様)と読まれてきたが、近年になって教科書等では「ひろ」と読む傾向になってきている。但し、上に示した偏諱を与えられた人物に関しては「なり」と読まれることが多い。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 『二川物語』、『豊前豊津小笠原家譜』。長将の弟政康の子としているが、実際には長将の子とされる。但し、持長の生年の応永3年(1396年)から考えると疑問視する向きもある。
^ この一連の出来事は、勝元・宗全への対抗策として畠山氏との提携を目論んだ義政の謀略とする説がある。勝元は義政への宗全赦免の取り成しで弥三郎への援助が出来ず、義夏の上洛も宗全が不在の時であり、結果として義政支持の義夏が畠山氏当主になったからである[3][4][5]
^ 義就には大和国人の支援もあった上、包囲中に寛正の大飢饉が発生したことも籠城が長引いた要因であった。また、籠城中に義就は河内国への文書発給を行っており、政長は名目上の河内守護に過ぎなかったと推測される[6][7][8][9]
^ 義政は義就と義敏を赦免して文正元年に大内政弘も赦免することで幕府派の大名結成を目論んでいた。しかし、家督を義敏に替えられることに反発した義廉は寛正6年(1465年)に赦免されたが依然として逼塞していた義就と接触、宗全も協力して文正の政変を起こし、政長に替わり自分の管領就任を狙って義就の挙兵を促した[10][11][12][13][14]
^ これは噂に過ぎない、とする説もある。

出典^ .mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}畠山義就. コトバンクより2024年5月12日閲覧。
^ 横澤信生「享徳三年四月三日畠山家分裂の実相」『富山史壇』157号、2008年。


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