しかし、持国の子畠山義就と甥畠山政長との間で家督をめぐっての激しい争いが起き、それが後の応仁の乱の一因になった。文明9年(1477年)に応仁の乱の終息後も義就流(総州家)と政長流(尾州家)は内紛を続け、この対立は両細川家の乱と共に畿内を内戦状態とする主因となった。また、畠山政長(畠山尾州家)や畠山義堯(畠山総州家)は管領に就任したが、戦国末期に両家でそれぞれ、木沢長政(畠山総州家)や遊佐長教(畠山尾州家)による下克上が起こった。
越中国は守護代の神保氏に奪われ、河内国も度々守護代の遊佐氏に脅かされたが、尾州家の紀伊だけは最後まで勢力を保った。
その後は足利に復姓して士族に編入された[2]。能登畠山家の方は畠山姓のまま士族となった[3]。
1884年(明治17年)に華族が五爵制になった際に定められた『叙爵内規』の前の案である『華族令』案や『叙爵規則』案では元高家が元交代寄合とともに男爵に含まれており、足利家(尾州畠山家)と能登畠山家も男爵を授けられるべき家にあげられているが、最終的な『叙爵内規』では高家も交代寄合も対象外となったため結局両家は士族のままだった[7]。 凡例 - 実線は実子、点線は養子
平姓畠山家詳細は「畠山氏 (平姓)」および「岩松氏」を参照
歴代当主
畠山重能 - (平姓畠山氏の祖)
畠山重忠
畠山重保
平姓畠山氏の系譜 平姓畠山家の系譜
村岡忠頼相模厚木氏武蔵秩父氏
秩父将常下総千葉氏相模中村氏忠通
武基相模三浦氏薩摩伊作氏相模鎌倉氏
武綱
重綱
重弘
畠山重能小山田有重北条時政足利義兼
重清次重宗三重忠嫡 六女 畠山義純
長野氏男衾氏重秀重保井田重政円耀重慶宮之原重俊貞嶽夫人
(島津忠久室)女
(畠山義純室?)目黒重行中根重晴中根重勝重国畠山泰国