留学
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古代日本において、稲作金属器文字仏教などは主に中国大陸朝鮮半島からの渡来人によって伝えられたものであったが、6世紀末頃からは、大和王権による中国への留学生の積極的な派遣が始まり、新知識、新技術の吸収が本格的に行なわれるようになった。記録に残されている最初の留学生は、588年百済へ派遣された善信尼ら5人の若いで、受戒の法を学び590年に帰国している。

この頃の日本には、造船や操船の技術が未発達で、留学はまさに命を賭しての一大事業であった。奈良時代以降の遣唐使遣隋使に付き従った学生、学問はまさにそれで、目的地にたどり着けない者、異国で学業を身につけたものの、終生帰国できなかった者も少なくない。遣隋使に付き従った高向玄理南淵請安らは、20?30年にわたって中国で生活し、帰国後は律令国家の建設において大きな役割を果たした。また、遣唐使が派遣されるまでは新羅に渡る僧も少なくなかった。遣唐使とともに派遣された著名な学生、僧としては、道昭吉備真備阿倍仲麻呂らがいる。なお、「留学生(るがくしょう)」という言葉が生まれたのもこの頃である。

平安時代に入ると、請益の制度による短期間の留学が主流になり、遣唐使とともに帰国するケースが増えた。最澄空海は、天台密教を学び、最後の遣唐使には、円仁が同行した。この頃の留学の費用は日本の朝廷から支給され、中国での生活費は中国側から支給されるのが一般的であった。9世紀半ばの遣唐使断絶後は、円珍など、商船に乗って唐に渡る僧が見られるようになった。
中世から近世

12世紀に入ると、大陸・南宋との交流が盛んになり、大陸仏教への関心も高まり、重源栄西覚阿ら各派の僧が相次いで南宋に留学した。とりわけ栄西による帰国後の新宗教活動は国内の僧に大きな影響を与え、その後、道元覚心らの積極的な留学を呼ぶこととなった。

元寇後は大陸との関係が途絶するが、14世紀初頭から、私的留学を行う僧らの渡航が活発化し、代にかけて留学僧の往来の最盛期をむかえる。雪村友梅ら長期にわたってを学ぶ者が多かった。しかし、室町時代に入ると倭寇対策のため日明貿易以外では中国への渡航が禁止される。その後、戦国安土桃山時代天正遣欧使節朱印船貿易江戸時代鎖国体制においても、事情は変わらなかったが、異国への窓口であった長崎出島)への国内留学によって、細々とではあったが海外からの文化が国内に入っていた。江戸時代後期には、輸入された学問や科学蘭学として徐々に広まっていった。
近代岩倉使節団に随行した女子留学生:左から永井繁子、上田悌子、吉益亮子、津田梅子、山川捨松。

近代日本における外国への留学は幕末に始まり、1862年江戸幕府が初めてオランダへ留学生を送り、次いでヨーロッパの諸国へも派遣している。また、長州薩摩などの諸藩も相競いあうようにして、英国(イギリスの日本人学生参照)やフランス、アメリカなどの各国へ若者たちを派遣した。1866年には留学のための外国渡航が幕府によって許可されるに至り、これら幕末期の留学生は約150人に達した。

明治時代に入ると、明治政府近代化、欧米化を目指して富国強兵殖産興業を掲げ、このなかで外国留学が重要な国策の一つとなった。明治4年9月までの留学生は、英国107人、米国98人を筆頭に、281人を数えた[1]岩倉使節団の派遣では留学生が随行し、司法制度や行政制度、教育、文化、土木建築技術などが輸入され、海外から招聘した教授や技術者(お雇い外国人)によって紹介、普及されていった。

それだけではなく、明治期以降、海外の優れた制度を輸入することや、海外の先進的な事例の調査、かつまた国際的な人脈形成、さらには国際的に通用する人材育成を目的として、官費留学が制度化された(貢進生参照)。無論、ある程度の財力を持つ人々やパトロンを得た者のなかには、私費留学によって海外での研鑽を選ぶ場合もみられた。明治年間のこうした官私費留学生は全体で約2万4,700人に達するとされ、また1875-1940年の間の文部省による官費留学生、在外研究員は合計で約3,200人を数える。

この間の著名な留学経験者として、伊藤博文井上馨桂太郎津田梅子大山捨松森?外夏目漱石中江兆民小村壽太郎東郷平八郎高橋是清三浦守治高橋順太郎湯川秀樹朝永振一郎らがいる。

1862年オランダ留学生 - 榎本武揚赤松大三郎沢太郎左衛門西周津田真道林研海伊東玄伯など

1863年長州藩イギリス留学生 - 井上聞多野村弥吉伊藤俊輔[要曖昧さ回避]、山尾庸三遠藤謹助など

1865年薩摩藩イギリス留学生(薩摩藩第一次英国留学生) - 森有礼鮫島尚信吉田清成など

1865年ロシア留学生 - 山内作左衛門市川文吉緒方城次郎、大築彦五郎、小沢清次郎、田中二郎など

1866年薩摩藩米国留学生(薩摩藩第二次米国留学生) - 仁礼景範湯地定基吉原重俊など

1866年イギリス留学生 - 外山正一箕作奎吾箕作大六林薫など

1867年フランス留学生 - 徳川昭武など

1868年フランス留学生 - 小出涌之助、伊東栄之助など

1871年岩倉使節団随行留学生 - 岩倉使節団#留学生参照

1872年京都府派遣フランス留学生 - 佐倉常吉、井上伊兵衛、吉田忠七(織物技術習得および機械購入)

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後は、フルブライト奨学金制度による学術留学及び研修留学や、ロータリークラブによる海外生活体験を目的とした留学、大企業による社費留学が制度化され、多くの人が海外へ行けるようになった。その目的は、海外の人々との交流であったり、学術研究レベルや行政、経営能力を引き上げることにあった。また、当然のことであるが、国際人として通用する人材を育成するために国として制度化した部分もある。サンケイスカラシップと仏語のコンクール・ド・フランセなどの公費留学も行なわれた。
現在

1985年プラザ合意以後の急激な円高傾向を受け、留学はより身近なものとなり、その目的や動機は多様化の一途をたどっている。これまで、日本の高等教育では例外的に水準の低かった経営学金融工学を学ぶため、ハーバード大学等有名大学のビジネススクールでMBA研究機関博士号の取得を目的とした学術的なものから、能力の向上のみを目的とした語学留学、海外での生活体験を目的としたワーキングホリデー、そのほか看護や児童英語教師の資格の取得を目的とするものなどがある。


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