畑俊六
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^ 検察官による証人尋問中、米内は何度注意されても、検察官の質問にはきちんと答えずに、自身の主張したい否定発言ばかりを返していた。裁判長・ウェッブは「この総理は、これまで証言を聴いた中でもっともstupid(「鈍い」「鈍感な」といった意味合いであろうか)な証人だ」と本人の面前で語ったが、米内自身は証言後友人に「裁判長に、大バカ提督と罵られちゃったよ」とニコニコしていたという。また、米内本人に証拠の新聞記事を読み上げさせた上で回答させることになったが、そのときも同様な態度でなかなか読み上げようとしなかったところ、弁護人から、字が小さいので拡大鏡がなければ読めないと助け舟を出された。これも本人が言うべきことで弁護人がそのような暗示を出すべきでないといった注意を複数回受けている。米内は、この弁護人の話に調子を合わせたが、いざ新聞を読み上げる段になって、ウェッブ裁判長に「拡大鏡が無いと読めないことを忘れたのではありませんか」と皮肉を言われ、今度は「灯りがつきましたね(だから、読めるようになった)」と返している。ただし、このような態度が検察官に対し畑の責任を最後まで認めなかったことにはなるとしても、どれほど弁護に役立ったかは分からない。尋問中、検察官の質問にまともに回答しないようならば信憑性のない証人として退廷させることになると、米内は裁判長から注意を受けていて、むしろ新聞記事の方が信頼性があるとの印象を与えた可能性さえある。

出典^ 『忠鑑 畑元帥』7頁
^ 「陸軍 畑俊六日誌」(みすず書房、平成16年(2004年))
^ 「後継首班に畑大将 内府と枢相奏請に傾く 問題は軍の反対気勢」大阪朝日新聞 1940.1.14 (昭和15)
^ a b c 新名丈夫『海軍戦争検討会議記録』(株)KADOKAWA、2022年10月10日、58-59頁。 
^ この場合、軍部大臣現役武官制により内閣の運営は困難となる。
^ 『日本人はなぜ戦争へと向かったのか メディアと民衆・指導者編』p135
^ 長谷川毅『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏(下)』中央公論新社、2011年。 152頁
^ “A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和22.9.11?昭和22.11.20(第269?318号)”. 国立公文書館. pp. 61-64コマ. 2023年11月24日閲覧。
^ 『秘録大東亜戦史 東京裁判篇』富士書苑、1953年、120頁。 
^ “A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4?昭和23.11.12(判決)”. 国立公文書館. 2023年11月27日閲覧。
^ 畑 俊六 著、伊藤 隆, 照沼 康孝 編『続・現代史資料(4)陸軍 畑俊六日誌』みすず書房、1983年3月1日、539-541頁。 
^ 軍事史学会(伊藤隆・原剛監修) 編『元帥畑俊六回顧録』錦正社、2009年、469-480頁。 
^ 実松譲『新版 米内光政』光人社、1975年。 329頁
^ 阿川弘之『米内光政』(新潮文庫2002年改版) ISBN 4-10-111006-9 623頁
^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)22頁
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 法廷証第106号: [畑俊六履歴書關スル人事局履歴書]
^ 『官報』第5484号「叙任及辞令」1901年10月11日。
^ 『官報』第6188号「叙任及辞令」1904年2月20日。
^ 『官報』第6640号「叙任及辞令」1905年8月17日。
^ 『官報』第8185号「叙任及辞令」1910年10月1日。
^ 『官報』第976号「叙任及辞令」1915年11月1日。
^ 『官報』第2500号「叙任及辞令」1920年12月1日。
^ 『官報』第4045号「叙任及辞令」1926年2月20日。
^ 『官報』第1225号「叙任及辞令」1931年1月31日。
^ 『官報』第2007号「叙任及辞令」1933年9月7日。
^ 『官報』第2928号「叙任及辞令」1936年10月3日。
^ 『官報』1913年06月02日 敍任及辭令
^ 『官報』第2431号「授爵・叙任及辞令」1920年9月8日。
^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
^ 『官報』第5214号「叙任及辞令」1944年6月3日。
^ 「陸軍中将畑俊六外九千三百六十八名満洲国建国功労章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113140200 
^ 「畑俊六外七十二名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113475800 

参考文献

梅谷芳光編著 『忠鑑 畑元帥』(国風会本部)、昭和39年(
1964年

NHKスペシャル取材班編 『日本人はなぜ戦争へと向かったのか メディアと民衆・指導者編』、新潮社、2015年

関連項目.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、畑俊六に関連するカテゴリがあります。

稚松会

函館市立潮見中学校 - 戦前に存在したの函館市民運動場の跡地に設置された中学校で、この校地内に建立された『函館市民運動場記念碑』の碑文を畑俊六が揮毫した。

外部リンク

『畑俊六
』 - コトバンク

『畑 俊六』 - コトバンク

日本ニュース第56号(1941年7月1日公開)(支那派遣軍総司令官として、ニュース映画をとおして国民向けに演説する畑を収録)

畑俊六|『靖国の絵巻』|國學院大學

先代
板垣征四郎陸軍大臣
昭和14年(1939年) - 昭和15年(1940年)次代
東條英機










陸軍大臣
陸軍卿

山縣有朋

西郷従道

大山巌

陸軍大臣

大山巌

高島鞆之助

大山巌

高島鞆之助

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