町火消し
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大名自らが火事場に向かうこともあってその火事装束は次第に華美で派手なものとなり、たびたび幕府によって規制されている。しかし傾向は変わらず、なかには消火活動中に装束の着替えを3度も行なう大名まであらわれ、そのため大勢の見物人が集まってきたという例もある[8]
明暦の大火以降

明暦3年(1657年)正月、本郷から発生した火事は、江戸の歴史上最悪の被害となった。明暦の大火(振袖火事)と呼ばれるこの火事のため、江戸城天守閣は焼失し、江戸市中で約68000人ともされる犠牲者を出した[注釈 6]

明暦の大火により、従来の方法では大火に対処できないことが明らかになったため、以後の江戸幕府は消防制度の確立に力を注いだ。江戸市中の再建では、大名屋敷・旗本屋敷や寺社の一部を郊外に移転させ、延焼を防ぐための火除地を確保した。また、瓦葺屋根土蔵造りなどの耐火建築を奨励し、火事に強い町づくりを目指した。そして、新たな消防組織である方角火消・定火消を編成している。
方角火消

方角火消(ほうがくびけし)は、明暦3年(1657年)、第4代将軍徳川家綱の時代にはじまる火消。

明暦の大火直後に大名12名を選び、桜田筋・山手筋・下谷筋の3組で編成した火消役がはじまりである。大名火消の一種で、担当区域に火事が発生すると駆けつけて消火に当たることとなっていた。元禄年間にかけて東西南北の4組に改編され、方角火消と呼ばれるようになった。正徳2年(1712年)、5方角5組に改編。享保元年(1716年)以降は大手組・桜田組の2組(4名ずつ計8大名)に改編され、火事の際はそれぞれ大手門桜田門に集結した。大手組・桜田組への改編後は、主に江戸城の延焼防止を目的として活動し、江戸城内の火事以外では老中の指示を受けてから出動した。消火の主力ではなく、火元から離れた場所で火を防ぐため、防大名(ふせだいみょう)とも呼ばれた。

担当は参勤交代で江戸に滞在中の大名から選ばれ、屋敷では通常より高い火の見櫓の建築が許された[注釈 7]。方角火消や所々火消の定員は大名の石高によって異なっていた。1万石以上では騎馬3-4騎、足軽20人、中間・人足30人。10万石以上では騎馬10騎、足軽80人、中間・人足140-150人。20万石以上で騎馬15-20騎、足軽120-130人、中間・人足250-300人、などである。
定火消名所江戸百景より「びくにはし雪中」左奥に武家火消の火の見櫓[10]

定火消(じょうびけし、江戸中定火之番)は、万治元年(1658年)9月8日に創設された幕府直轄の火消[11][注釈 8]

明暦の大火の翌年、4000石以上の旗本4名(秋山正房近藤用将内藤政吉町野幸宣)を選び、それぞれに与力6名・同心30名を付属させて設けられた。幕府直轄の消防組織であり、若年寄の所管、菊間詰の役職であった。

定火消の長は火消役である(先述の知行4,000石以上の旗本)[11]。与力・同心のもとで直接消火活動に従事した者は「臥煙(臥烟)」と呼ばれた[11]。4名の旗本には専用の火消屋敷と火消用具を与え、臥煙(専門の火消人足)を雇う費用として300人扶持を加算した。4箇所の火消屋敷はそれぞれ御茶ノ水・麹町半蔵門外・飯田町・小石川伝通院前に設けられ、すべて江戸城の北西であった。この屋敷の配置は、冬に多い北西の風による、江戸城延焼を防ぐためである[12]。それぞれの担当地域で火事が発生すると、出動して武家地・町人地の区別なく消火活動に当たった。定火消は火事場の治安維持も担当し、鉄砲の所持と演習が許可されていた。なお、消火だけでなく緩急あるときは、火消役は配下を率いて、小姓組の背後に付くこととされており戦場でも火事装束を用いることとされていた[11]

翌年正月の1月4日には、老中稲葉正則の率いる定火消4組が上野東照宮に集結して気勢をあげ、出初(でぞめ)を行なった。これが出初式のはじまりとなり、以降毎年1月4日には上野東照宮で出初が行なわれるようになった[13]

万治2年・3年にかけて代官町など4箇所、寛文2年(1662年)と元禄8年(1695年)にも日本橋浜町などが追加で設けられ、合わせて15組が江戸城を取りまくように配置された。しかし、宝永元年(1704年)以降は10組(定員1280名)での編成となる[11][注釈 9]。このため、総称して十人屋敷や十人火消などとも呼ばれた[11]。10箇所の火消屋敷の場所は、赤坂溜池屋敷・赤坂御門外屋敷・飯田町屋敷・市ヶ谷御門外屋敷・小川町屋敷・御茶之水屋敷・半蔵御門外屋敷・駿河台屋敷・八代洲河岸屋敷・四谷御門内屋敷であった[11]

定火消を命じられた旗本は、妻子とともに火消屋敷で居住した。火消屋敷は約3000坪の広い敷地を持ち、緊急出動用に馬も準備されていた。敷地内には3丈(約9.1m)の火の見櫓が設けられ、合図のため太鼓半鐘がそなえられていた。この火消屋敷が、現在の消防署の原型である。屋敷内には臥煙の寝起きする詰所があり、夜には長い1本の丸太を枕として並んで就寝した。夜に火事の連絡が入ると、不寝番がこの丸太の端を槌で叩き、臥煙を一斉に起こして出動した。出動に当たっては火事装束を身につけ、纏番を先頭に立て、騎馬の定火消と与力、続いて同心に臥煙という順番で隊列を組み、火事場に向かった。
享保の改革徳川吉宗

江戸時代中期に入り、8代将軍徳川吉宗の時代には、享保の改革が行なわれた。改革では消防制度の見直しも実施され、所々火消・方角火消の改編や火事場見廻役の新設などが行なわれた。さらに、諸大名の自衛消防組織である各自火消に対し、近所の火事へ出動義務を拡大するなど、武家地の消防体制が強化された。町人地の火事に対する大きな改革としては、大岡忠相が主導した、町人の消防組織である町火消の制度化があげられる(後述の町火消を参照)。
各自火消

各自火消(かくじびけし)は、諸大名が自身で組織した火消。

はじまりは自身の大名屋敷を防火・消火するための消防組織であり、早くから存在していた[注釈 10]


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