町屋_(商家)
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屋根は板葺きであったが平安時代の町屋より進展し、押さえ木(または竹)を縦横に通し丸石を乗せて屋根板の反りや剥がれを防いでいた[8]

中世固有の町屋として、中土間型の町屋がある。長屋形式の各戸に対して、中央の土間とその左右に居室がならぶ形式で、一つのユニット中に複数の家族が住む。中土間型の町屋は、身分的に従属する別家・手代層や被官層のために建てられた供給型住宅と見られている。[9]

小川通り(現在の今出川通り)の町屋(『洛中洛外図屏風(歴博甲本)』)

室町通りの町屋(『洛中洛外図屏風(歴博甲本)』)

地方における、街道沿いに町屋がならぶ街村形態は鎌倉時代には成立していた。また鎌倉では、門屋や武士の住宅に混じって町屋が建てられていた。[7]

遠江国蒲原宿(現在の静岡県静岡市清水区)の町屋(『一遍聖絵』)

鎌倉小袋坂の情景(『一遍聖絵』)

近世の町屋
江戸の町屋
成立期の町並み

江戸時代前期の江戸では、メインストリート付近に?葺に混じって瓦葺の町屋が建ち並び、特に交差点に面した家では3階建てのを載せた城郭風の町屋が建てられた。成立期の江戸町は、徳川氏伝馬染物鉄砲大工などの御用を国役で請け負う代償として、数町単位で町地を拝領した国役請負者が配下の者に屋敷地を分配して住まわせたと推定されており、城郭風町屋は国役請負者の権威を誇示するために建てられたと考えられている。しかし、慶安2年(1649年)に町屋の3階建てが禁止されてからは新築されず、明暦の大火による焼失後は見られなくなった。こうした特別な家を除けば、江戸時代前期にはまだ?葺や板葺が多かった。[10][11]

町屋の多くは間口1間半、奥行き2間ほどの小さな規模であり、室町時代末期の京都町屋より小規模であった。町屋の多くは中二階で、うだつも造られていた。その店は京都町屋の影響を受けた通り土間形式であり、通り土間の幅は半間ほどの狭いものであった。しかし店の表側は、京都町屋にみる格子はなく全面開口であり、江戸独特の店構えが成立していた。そこでは男女の職人たちが様々な商品を製作・販売していた。表通りの町屋に囲まれた街区の中(裏庭)は広い空間であるが、そこには会所と呼ばれる広場があった。住居や蔵も建てられ、その蔵はむくり屋根の独特のものであった。[12]

初期に同業者町として成立した町には、土間を共有して複数の店舗が一つの町屋に混在する表長屋形式の町屋が建てられていた。しかし、中・後期になると大店が町屋敷を集積して表通りを占めるようになり、こうした表長屋の均質な町並みは次第に姿を消していった。[11]

江戸時代初期の日本橋の町屋(『江戸図屏風』)

店蔵

江戸は火事の多い都市だったが、特に明暦3年(1657年)の「明暦の大火」後、幕府は江戸の防火策に乗り出した。明暦の大火直後、茅葺?葺の上を土で覆って延焼を防ごうとしたが、耐久性が悪く普及しない。そこで享保5年(1720年)、一時は町人に禁止していた瓦葺や、壁を土蔵のように土で塗り込める土蔵造など、本格的な火事対策を推奨した。また、延宝2年(1647年)に本瓦よりも軽くて安い桟瓦が発明されたことで瓦葺の普及に拍車をかけた。[10]

土蔵造の町屋は防火機能だけでなく、商人の経済力を誇示する建築表現として定着し、大きな箱棟を持つ黒漆喰の重厚な土蔵造が建設された。土蔵造は「店(見世)蔵造(みせぐらづくり)」とも呼ぶように、町屋のみせ機能を特化させたものである。しかし、江戸に土蔵造が普及するのは幕末以降になる。[13]

幕末頃の店蔵は、黒漆喰仕上げの外壁に重厚な屋根と軒蛇腹を持ち、2階の開口部には観音開きの扉か格子を付けた横長の窓を設けていた。下屋庇は板葺きで、出桁造の建物が半数ほどあった。黒漆喰仕上げは「江戸黒」と呼ばれ[14]、白漆喰仕上げより多くの手間がかかるが、表通りの店蔵や袖蔵では好んで用いられた。[15]拡大
Clip室町一丁目付近の街並み『熈代勝覧
大店

城下建設が進むにつれ、上方からも多くの商工業者が江戸に移り住むようになり、伊勢近江の商人が江戸に進出した。江戸中期になると初期特権商人は姿を消し、それにかわって「現金掛値なし」の店前売りを前面に打ち出した新興商人が台頭する。近江出身の白木屋、伊勢出身の越後屋はその代表で、彼らは本町通りや日本橋通りに巨大な店舗を構え、次第に大店の立ちならぶ景観が形成された。江戸の大店は京都とは異なり、隣接する町屋敷を合併した大規模な屋敷間口を示すものが多く、36間の間口を持つものや15間の間口を持ち屋敷が裏の町境を越えるものなどがあった。こうした大店はほとんどが呉服屋だった。[16]

大店の表側には道路に沿って幅1間の「店下(みせした)」と呼ばれる庇下通りがあり、それにそって「踏込(ふみこみ)」という狭い土間がある。内部は仕切りのない大空間「みせ」が中心にあり、奥には商品や書類などを保管する蔵が林立する。ここには、番頭以下、百数十人の奉公人が厳格な規律の下で働いた。大店の町屋には原則として居住空間はなかったが、住み込みの奉公人たちは2階に寝泊まりした。[16]

上層町人の家では、街区の中(裏庭)に町屋と分離して住居を構えることが寛永期から続いているが、その住居は表通りの町屋とは縁と中庭でつながり、入り口は表通りから路地に入ったところに設けられていた。京都の町屋が大きさに関係なく見世と住居が一体で、住居への専用入口が大きな町屋では表通りに面したところに設けられていたり、あるいは中規模の町屋では客入口と同じ通り土間であることとは大きく異なる。[12]

神田駿河町の大店(『江戸名所図会』)

三井越後屋江戸本店の模型

三井越後屋江戸本店の店内

中小の町屋

中後期の中小規模の町屋は、初期の通り土間型ではなく、店を間口全体に広げ表側に奥行き半間ほどの土間を設けた前土間型の町屋が一般的であった。前期の町屋にみられた店の表側の全面開口は変わらず、江戸町屋の特徴は続いている。あまりに広く道に開口しているため、その一部にのれんを庇から地面に掛けた町屋も多くみられた。また、江戸町屋の庇は通常庇柱が立ち、アーケード状の庇下通りを形成した。[12][16]

江戸の町屋(『類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿』)

江戸の路地に面した町屋(『類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿』)

前土間型町屋の断面(『東京風俗志』)

裏長屋

江戸の町人地の町割りは、道から道までの内法が京間(1間=65、約2メートル)60間で計画された。この正方形の大きさは、平安京の1の寸法とほぼ同じで、京都を意識して計画されたことが指摘されている。ただし、京都と異なるのは、この正方形の内側を有効に使うため、60間を3等分している点で、このため通りに面する町屋の敷地の奥行きは20間に統一されていたことになる。大店の場合、通り側を店としてその奥に商品を保管する蔵や奉公人の住まいを設けて敷地を目一杯利用したが、多くの場合は通り側に「表店(おもてだな)」と呼ばれる店舗兼住居を建ててその背後に「裏長屋」と呼ばれる長屋を設けた。裏長屋は表店の主人が大家となり、店子に貸し出される借家である。裏長屋へは、2軒の表店の間に設けられた木戸と路地から出入りした。[17]

このように、表店を5間程度の奥行きに抑え、その奥に裏長屋を取る構成はかなり定型化されており、長屋の各戸の間取りも「9尺2間の裏長屋」といわれるように、間口1間半、奥行き2間ほどで土間まで含めた広さ6畳程度が定番である。手前側に設けた土間にかまどと流しを備え、畳敷きの部分は4畳半ほど。裏長屋の各戸は同じ平面で、表店の間口が3間程度なら片側、5間程度なら両側に並んでいた。路地の一角に、便所と井戸が共同で設けられる点も定型で、この井戸は井戸水ではなく神田上水玉川上水から分岐した、いわば水道水である。[17]

こうした表店と裏長屋の構成は、江戸時代中期に成立したとみられている。江戸の人口は享保年間ですでに100万人を越え、町人はその半分を占めていた。裏長屋は、この巨大な人口を収容するために生まれた、過密都市ならではの住居だった。[17]


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