町奉行
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この為に奉行は与力に夏や冬に反物を贈ったり、業務が多忙な時に出勤した者たちへ湯漬けや鮪を自腹で供したり、火事場への出馬の際には与力や同心の弁当を奉行が自腹で負担する等、与力や同心の歓心を得ようとしていた[9]。また町奉行は2-5年で異動する為(20年近く在職した大岡忠相や18年近く在職した根岸鎮衛等は稀であり例外である)、職務に関する知識を代々受け継いでいる、与力や同心を制御する事が難しく、地位は高いものの職務については配下の与力の言いなりになりがちであったという[10]
奉行所

奉行所として北町奉行所と南町奉行所が設置されたが、これは相対的な位置関係で職務に関しては月番制をとっていたのであり南北に管轄を分けていたわけではない[3]

なお、1702年(元禄15年)閏8月 - 1719年(享保4年)1月という短い間ではあるが中町奉行所というものも設置された。設置された理由や職務内容はあまり定かではないが、南北町奉行所の補助役として設置されたとされる。
位置

1631年に幕府が町奉行所を建てるまで、町奉行所は、町奉行に任ぜられた者がその邸宅に白州を作ってその職務を執り行っていた。

町奉行所と言う名称は、その役職から来た名であるため、町人たちからは御番所(ごばんしょ)や御役所と呼ばれていた。南町奉行所(南番所)は現在の有楽町マリオン付近に、北町奉行所(北番所)が東京駅の八重洲北口付近に置かれていた[11]。通常奉行所は厳重に警備されていたが年に一度6月7日の中橋天王祭礼のときだけは表門を開いて神輿を迎え入れ、また奉行や与力・同心の家族・親類などが男女問わず奉行所の内部を見学することを許していた。その際見学に訪れる者は着飾った衣服を身に付けていたという[12]

明治以降、奉行所は取り壊されてしまったが、北(東京駅八重洲口北側付近)・南(有楽町マリオン・有楽町イトシア)の両町奉行所が存在していたとされる場所には、今でも石碑が建っている。ただし、いずれも幕末期における町奉行所の位置であり、文化2年(1805年)以後に固定化された場所に相応している。
組織

与力は南北奉行所に25名ずつ、同心は100名ずついた。50万人の町人の人口に比べると南北合わせて250人程度という非常に少ない人数で治安維持や行政、防災にあたっていたのである。特に、犯罪捜査などの警察業務にあたるのは三廻(定廻、隠密廻、臨時廻)だが、定廻は同心が3-5名程度、隠密廻、臨時廻を加えても南北合わせて30名程度という少人数で江戸の治安維持に当たっていた。このため定廻同心達は自腹で目明し(岡っ引)を雇っていたほか、放火や盗賊については武官の先手組が加役の火付盗賊改方として取締りに当たった[13]

時代によって職種などは変化したが、概ね以下のような組織になっていた。特に注の無い限り、内与力・三廻以外は、与力-同心という構造になっていた[14]

町奉行

内与力(町奉行の家臣。奉行の秘書役)

年番方(人事出納・奉行所全体の管理。与力の筆頭格) - 同心

吟味方(訴訟の審理・刑の執行) - 同心

赦帳方・撰要方・人別調掛(恩赦の資料作成、『撰要類集』の編纂、人別調査) - 同心

例繰方(判例の記録と調査) - 同心

本所見廻(本所深川に関する事柄を担当。江戸初期は本所奉行という独立した役職が担当していた) - 同心

養生所見廻(小石川養生所の管理) - 同心

牢屋敷見廻(伝馬町牢屋敷の取締り。実務は牢屋奉行の配下が担当) - 同心

定橋掛(幕府が普請したの維持・管理) - 同心

町会所見廻(市中の町会所の事務管理) - 同心

猿屋町会所見廻(浅草蔵前札差業務の管理) - 同心

古銅吹所見廻(市中の古銅吹き替え業務の監督) - 同心

高積改(防火のため河岸の荷を監視) - 同心

町火消人足改(町火消の消火活動を指揮) - 同心

風烈見廻(強風時に昼夜巡回。火災の警戒) - 同心

人足寄場定掛(人足寄場の事務監督) - 同心

三廻(同心のみ)

定廻同心(犯罪捜査、犯人の逮捕)

臨時廻同心(定廻同心の補佐)

隠密廻同心(奉行に直属して偵察)




東京都千代田区
JR有楽町駅
南町奉行所跡碑と、
再開発事業によって出土され再現された石組みの下水溝の一部(2018年11月・北緯35度40分28.4秒 東経139度45分48.3秒)

東京都千代田区


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