男闘呼組
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『PEACEFUL PARK Charity for Happy Inclusion 2023』[11]、『男闘呼組 2023 THE LAST LIVE -ENCORE-』に参加[12]。)

礒野凌太郎(再始動後のサポートドラマー。ライブ『男闘呼組 THE LAST LIVE』の福岡、熊本公演に参加[13][14]

来歴
グループの成り立ち及びデビュー前まで

1984年12月末、雑誌『マイアイドル』(1985年3月号分)の撮影に、成田昭次高橋一也岡本健一の3名が初めて揃って「ジャニーズJr.」として参加。この3月号の誌上で、ジャニーズJr.の中から更に数名を集めてバンドグループを結成するという企画が発表された。

1985年になり、この3名に対して「東京」というグループ名をジャニー喜多川社長が命名。[15]新たに遠藤直人と守屋二郎が加わり、5人で出演した明治製菓のチョコレート「アーモンドゴールド」のCMが、同年2月からオンエア開始(CMソングは彼らの初オリジナル曲「誠 ほれたぜ」)。その後「東京男組」と名乗るようになり、補佐メンバーとして前田耕陽が参加。同年3月、サポートメンバーの前田も含めた6名でグループ名を正式に「男闘呼組」へと改名(グループ名の名付け親は、ジャニーズ事務所社長のジャニー喜多川から、「You、今度うちからロックバンドを出そうと思うんだけど、名前考えてくれない?」と打診された事務所の先輩、中村繁之)。 しかし同月、守屋二郎が「大学受験の為」との名目で脱退。そして、ジャニー喜多川社長にスカウトされて事務所に入った土田一徳が、守屋との入れ替わりで加入しキーボードを担当。成田・高橋・岡本・遠藤・土田の5人で、同年4月3日からはテレビ朝日欽ちゃんのどこまでやるの!』にも出演開始。しかしその後、土田がメンバーから外される。以後、土田は俳優活動に専念。同年4月末、成田・高橋・岡本・遠藤に、前田耕陽を加えた計5名で「アーモンドゴールド」の新バージョンCMの撮影をする(放映開始は同年9月から)。やがてキーボード担当の遠藤も脱退。以後、少年忍者のメンバーとなる。

元々の主要メンバーである成田・高橋・岡本の3名だけでの活動が少し続き、明治製菓のチョコスナック「おばけランド」のCMに出演。「東京男組」の時から時折サポート的に参加していた前田が、ドラム担当として正式に男闘呼組に迎え入れられる。これにより、高橋の担当楽器がドラムからベースギターに変更。しかし、間もなくして前田の担当楽器もドラムからキーボードへと変わった。 少年隊のデビューコンサートの前座に男闘呼組が出演する際、前田の高校の同級生であったYOUSAY KAWAKUBOが前田に誘われドラムで参加。この演奏がデビューへの条件であった。前座は成功しデビューへ。YOUSAY KAWAKUBOは後の初の冠番組『アイドル花組おとこ組』出演後ジャニーズを退所。その後は、2人のプロミュージシャン(ドラムとキーボード)をサポートメンバーとして迎え、6人編成のバンドスタイルで活動していく。

1986年1月、初の冠番組『アイドル花組おとこ組』放送開始。日本テレビ制作の音楽バラエティー番組である。同年4月27日、名古屋市民会館にて念願だったファーストコンサートを開催。メディアへのメンバーの露出が多かったことや、事務所側の期待の大きさもあり、レコードデビューより1年半前の1987年3月の時点で、当時の音楽番組の雄であったフジテレビ『夜のヒットスタジオ』への初出演を果たしている。

光GENJI、男闘呼組、少年忍者の3グループの総称として少年御三家と名付けられ、1988年1月に初めて合同コンサート「少年武道館」を実施した。1988年2月、長崎俊一監督の映画「ロックよ、静かに流れよ」にメンバー4人が主役として出演し映画デビュー。長野県松本市に一か月近く合宿して撮影を行った[16]。本映画は、キネマ旬報ベスト・テン4位[17]、第10回ヨコハマ映画祭ベスト10 第1位、作品賞、監督賞(長崎俊一監督に対して)、新人賞(男闘呼組に対して)を受賞するなど高い評価を得た。男闘呼組は音楽だけでなく演技面の才能にも恵まれており[17]本映画への出演によって、その名を一気に高めたと言われている[18]
デビューから活動休止まで

本格派ロックバンドをコンセプトとしていた。「DAYBREAK」(1988年発表シングル、オリコン最高チャート1位)でレコードデビュー。続いて「秋」「TIME ZONE」などの楽曲がヒットし、 1991年発表のシングル「ANGEL」からは自作曲が中心となる。

1988年に第30回日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞[19]。1988年及び1989年にはNHK紅白歌合戦に出場し[20][21]、1989年には東京ドームでコンサートを行った。

1993年6月30日付けで、高橋がジャニーズ事務所から解雇されたことに伴い、突如グループが活動休止(実質的な解散)となる[22]。同日は渋谷PARCO劇場で4人一緒に出演していた舞台「スラブ・ボーイズ」の千秋楽であり、男闘呼組で出演したNHK-BS特番「トップアイドル・オンステージ」(5月9日NHKホールにて収録)の放映日でもあった。

高橋は後日、活動休止に対し「様々な理由が重なっているんだけど、要するに僕らは若かったんだと思う。あの地点で行き止まりだった。僕がジャニーズ事務所を離れることになったけど、そこへいくまでも、僕ら1人1人がそろそろ独り立ちする時だと考えていたと思う。あの時点で、具体的にこれが問題でした、というわけではない。でも、結果的に男闘呼組が活動休止になったことで、それぞれが自分の道を歩み出し、その時間は人間としても、アーティストとしても必要だった。」と語っている[23]
活動休止期間

高橋の退所後、成田と前田が退所し、岡本のみがジャニーズ事務所に所属していた。その後は各々の仕事もあり、それぞれ集まろうという発想が無かったが、2019年にジャニー喜多川が亡くなる少し前より4人でやり取りする様になった[24]。その後、当時芸能活動を離れていた成田に会いたくて3人のメンバーが会いに行った。2020年8月4日、活動休止後初めて4人揃って名古屋で会い、スタジオで6時間程セッションを行った。4人のメンバーがそろって音を出し、一つにまとまった時は、高橋は「不思議な感じなのと、一気に時を飛び越えて昔に戻った。もちろん当時と同じものでは無いが、当時と変わらないものがあった」と感じた。6時間のセッションにあたっては、メンバーひとりひとりが1曲ずつ選んだ。高橋は「ロックよ、静かに流れよ」を選んだそうである[25][23]。他のメンバーが選んだ曲は、「ROLLIN' THE DARK」(成田)、「みはり」(前田)、「PARTY」(岡本)であったことが2023年8月26日の日比谷野外音楽堂公演のMCで明かされた。他に岡本の希望で「DAYBREAK」「TIME ZONE」、そして「MIDNIGHT TRAIN」も選ばれた。
期間限定での活動再開

2022年7月16日、TBS系列の音楽特別番組『音楽の日』内において、収録でおよそ29年ぶりに活動を再開する事が公式HP内でサプライズ発表された[3]。収録には総合司会を務める予定で当日虫垂炎により休演した中居正広も観覧しており、中居とともに写真を撮っていた[26]。また、東京ガーデンシアターでの再始動ライブが、10月15日と16日の2日間、昼夜2回公演で行われることも発表され[2][27]、愛知、大阪、東京での追加公演が12月に行われることも決定した[28]

再結成のきっかけは、2019年5月にファンの熱い要望により池袋HUMAXシネマズにおいて開催された「ロックよ、静かに流れよ」の公開30周年記念上映会に岡本健一が参加し、当時消息不明とされていた成田昭次のコメントを発表したことである。その際の反響の大きさを岡本は成田に伝え、男闘呼組の復活について成田に問いかけた。当時芸能界を引退していた成田は「それは難しいかな」と返答した。その後、ジャニー喜多川のお別れ会(2019年9月4日)に成田が出席し、岡本と久しぶりの再会を果たした[29]

ジャニーのお別れ会に男闘呼組の一部メンバーがそろい、岡本を通じて「またやったらいいのに」とジャニーが生前語っていたことを知ったという。その後、一回集まって音を出してみようということになり、2020年の夏に名古屋のスタジオに集合した。このことは翌日にジャニーの墓前に報告した[30]

それぞれ所属事務所が異なっており、各個人の活動との兼ね合いや、権利の問題などがあり、再結成を実現させるには話し合いや調整が必要であった。プロデューサーの手腕で一つ一つ乗り越えていったことで、少しずつ再結成が現実味を帯びていき、最終的に再結成が実現した[23]

2022年7月16日にTBS系音楽特番「音楽の日2022」に出演される事が発表され29年ぶりに復活を果たす。今回の再結成は2023年に結成35周年を迎えるにあたっての期間限定の再結成であり、2023年8月以降のことは決まっていないとしていた[23]


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