男闘呼組
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その後は各々の仕事もあり、それぞれ集まろうという発想が無かったが、2019年にジャニー喜多川が亡くなる少し前より4人でやり取りする様になった[24]。その後、当時芸能活動を離れていた成田に会いたくて3人のメンバーが会いに行った。2020年8月4日、活動休止後初めて4人揃って名古屋で会い、スタジオで6時間程セッションを行った。4人のメンバーがそろって音を出し、一つにまとまった時は、高橋は「不思議な感じなのと、一気に時を飛び越えて昔に戻った。もちろん当時と同じものでは無いが、当時と変わらないものがあった」と感じた。6時間のセッションにあたっては、メンバーひとりひとりが1曲ずつ選んだ。高橋は「ロックよ、静かに流れよ」を選んだそうである[25][23]。他のメンバーが選んだ曲は、「ROLLIN' THE DARK」(成田)、「みはり」(前田)、「PARTY」(岡本)であったことが2023年8月26日の日比谷野外音楽堂公演のMCで明かされた。他に岡本の希望で「DAYBREAK」「TIME ZONE」、そして「MIDNIGHT TRAIN」も選ばれた。
期間限定での活動再開

2022年7月16日、TBS系列の音楽特別番組『音楽の日』内において、収録でおよそ29年ぶりに活動を再開する事が公式HP内でサプライズ発表された[3]。収録には総合司会を務める予定で当日虫垂炎により休演した中居正広も観覧しており、中居とともに写真を撮っていた[26]。また、東京ガーデンシアターでの再始動ライブが、10月15日と16日の2日間、昼夜2回公演で行われることも発表され[2][27]、愛知、大阪、東京での追加公演が12月に行われることも決定した[28]

再結成のきっかけは、2019年5月にファンの熱い要望により池袋HUMAXシネマズにおいて開催された「ロックよ、静かに流れよ」の公開30周年記念上映会に岡本健一が参加し、当時消息不明とされていた成田昭次のコメントを発表したことである。その際の反響の大きさを岡本は成田に伝え、男闘呼組の復活について成田に問いかけた。当時芸能界を引退していた成田は「それは難しいかな」と返答した。その後、ジャニー喜多川のお別れ会(2019年9月4日)に成田が出席し、岡本と久しぶりの再会を果たした[29]

ジャニーのお別れ会に男闘呼組の一部メンバーがそろい、岡本を通じて「またやったらいいのに」とジャニーが生前語っていたことを知ったという。その後、一回集まって音を出してみようということになり、2020年の夏に名古屋のスタジオに集合した。このことは翌日にジャニーの墓前に報告した[30]

それぞれ所属事務所が異なっており、各個人の活動との兼ね合いや、権利の問題などがあり、再結成を実現させるには話し合いや調整が必要であった。プロデューサーの手腕で一つ一つ乗り越えていったことで、少しずつ再結成が現実味を帯びていき、最終的に再結成が実現した[23]

2022年7月16日にTBS系音楽特番「音楽の日2022」に出演される事が発表され29年ぶりに復活を果たす。今回の再結成は2023年に結成35周年を迎えるにあたっての期間限定の再結成であり、2023年8月以降のことは決まっていないとしていた[23]。11月15日には第64回日本レコード大賞で特別賞を受賞し、12月30日の受賞記念音楽会でパフォーマンスを披露した[31]

2023年4月28日から全国ツアー「男闘呼組2023 THE LAST LIVE」を21都市で開催。30年前に急遽活動を休止したため、当時ライブを予定していた開催地を中心に展開するとした[32][33]。8月16日・17日、24日・25日に解散公演「男闘呼組 LAST FOREVER」を日本武道館にて、8月26日に「男闘呼組2023 THE LAST LIVE -ENCORE-」を日比谷野外音楽堂にて行い、合計53公演を終えて解散した[34]
後身バンド「Rockon Social Club」

2022年12月、元「JUN SKY WALKER(S)」のベーシストである寺岡呼人のプロデュースのもと、男闘呼組のメンバーを中心に後身バンド「Rockon Social Club」が結成された。

2023年3月1日に、Rockon Social Club のオリジナルアルバム「1988」が発売。このアルバムは、実質的に30年ぶりに男闘呼組の全メンバーが参加した新作として注目されている[35]

2023年12月26日に、NHKはRockon Social Clubが第74回NHK紅白歌合戦にてMISIAの「紅白スペシャル2023」に登場することを発表した[36]
特色

デビュー当時に同じ事務所に所属していた
少年隊光GENJIとはタイプを異にする本格派ロックバンドとしてデビューした。原点の一つにキャロルがあるという[37]。デビュー前からテレビ出演やコンサート活動などを通じて多くのファンをつかんで来た[38]

デビュー曲のDAYBREAKをはじめ、楽曲の随所でハーモニーが多用されている。主旋律を歌う高橋一也または岡本健一の声に途中からハスキーボイスの成田昭次の上ハモリが加わり、サビを成田がソロで歌いあげる展開が多い。前田耕陽は主に高音のハモリ(ファルセット)やコーラスを担当している。ジャニーズでは珍しい全てアカペラの「STAY WITH ME」では、四声ハーモニーを響かせている。他方、4人全員が、自身の作詞作曲によるソロ歌唱曲を有している。

1曲を高橋と成田の二人で、もしくは高橋、岡本、成田の3人でパート分けをして歌う、所謂スイッチボーカルの楽曲が多いことが特徴である。特に3人でスイッチボーカルを行うバンドは、極めて稀であると言われている[39]

ダイナミックな転調のある歌が多い。高橋は、「ボーカリストのキーが違うので一曲の中で転調せざるを得なかった事がかえってバンドの独特の個性になっていた」と後に発言している[40]

ジャニーズ事務所内で、音楽志向の強いメンバーが集まって自主的に形成されたバンドが始まりである。デビュー当初は、プロの作詞家・作曲家から曲を提供されていたが、デビュー以前からメンバー自身が作詞作曲に取り組み、デビュー後は徐々に自作曲が増えていった。

メンバー全員が作詞、作曲を手掛けている。各人の音楽的志向が異なり[41]、それが自作の楽曲にも表れている。高橋や成田の作詞にはメッセージ性の非常に強いものが見られる。

エピソード

グループ名の名付け親は、
中村繁之とされる。中村がジャニー喜多川のお別れ会に参加した際のインタビューにて、ジャニーより「今度、楽器を弾いたちょっと男っぽいグループを作りたい。」ことを告げられ、中村より『男組』という漫画のタイトルより「男組なんていいじゃないの?」といい、決まったようである。尚、グループの漢字はジャニーが考えたとされる[42]

デビュー時のキャッチフレーズは「ジャニーズ事務所のおちこぼれ」であった。その理由は、メンバー全員がダンスを苦手としていたためである。ダンスレッスンをさぼる口実として音楽スタジオを借り、本格的に練習を始め、デビューにつながった[43]

デビュー前より音楽的志向が強く、後にコンサートにて「ペンライトは使うな」と呼びかけるようになった。そして、“所詮はジャニーズのアイドルバンド”との偏見や批判の声もあったが、4枚目のアルバム発表時からメンバー自身が作詞作曲を手掛けるのが常となってアーティスト色が強まったことから、アイドルバンドとの呼び声も消えていった。

ビデオ撮影やレコーディング等のために度々グループで海外を訪問している。デビュー前の1987年に発売されたビデオ「Made in U.S.A.」はアメリカのニューヨークやロス等を舞台にロケが行われた。1988年発売のビデオ「Xing Point」はトルコで撮影され、1990年発売のアルバム「」のレコーディングは1990年1月下旬から2月初旬にかけてロンドンで行われた。

1990年2月のローリング・ストーンズ初来日公演がテレビ放映された際、ジャンピン・ジャック・フラッシュの演奏中に最前列で盛り上がる高橋和也と岡本健一の姿が映され話題となった[44]

バンドのリーダーは前田耕陽である。これはデビュー会見で記者からの質問に対し、高橋が咄嗟にそう答えたことに端を発する。当時、男闘呼組のリーダーは決まっていなかったが、「リーダーのような大変なことは誰もやりたくなかった。誰よりも早く起き、きちんと朝食をとる耕陽がいいんじゃないかと思った」と後に高橋は語っている[45]

TOKIO城島茂がデビュー時の男闘呼組とドラマ出演など頻繁に行動を共にしていた。

光GENJI諸星和己は、1986年1月に男闘呼組の冠番組『アイドル花組おとこ組』の出演者オーディションを受ける形でジャニーズ事務所に入所した。

従来、ジャニーズ事務所の合宿所には厳しい上下関係が存在していたが、男闘呼組は後輩である後のSMAPのメンバーらに対して上下関係を強いることをせず、優しい先輩として慕われていた。稲垣吾郎は、男闘呼組が『ベストテン』に初登場した日の夜、合宿所の応接室で寝てしまっていたが、帰宅したメンバーは稲垣を起こさないよう、小さな音量でビデオに録画しておいた自分たちの映像をチェックしていたという。また、木村拓哉も男闘呼組のメンバーに「果てしなく一緒に遊んでもらった」と語っている。木村、稲垣以外のSMAPメンバーも、みんな男闘呼組が大好きだったと話している[46]。特に木村はかねてから岡本健一を尊敬する先輩と公言しており、トレードマークだったロングヘア―やピアスも岡本健一のファッションに影響を受けたものである。岡本はたとえ事務所が難色を示しても「やりたいことは全部やれ」とアドバイスした[47]

1989年に『紅白歌合戦』に出場した際には司会の武田鉄矢から「男の闘志を呼ぶ組」と紹介された。


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