男爵
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つまり華族の次男以下は当初は華族の戸籍に入っている無爵華族であるが(爵位を持つのは戸主のみ)[27]、分家して独立した戸主になる際、華族の体面を汚さない財産を確保できれば分家華族として男爵に叙され、確保できず爵位が認められなければ平民ということである[26][14]。以下の家が分家華族として男爵位を与えられた家である。浅野養長家(浅野侯爵家分家)、有馬頼多家(有馬伯爵家分家)、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}伊江家(いえ)(尚侯爵家分家)、一条家(土佐一条家)一条公爵家分家)、伊藤文吉家(伊藤公爵家分家)、岩倉具経家(岩倉公爵家分家)[注釈 1]、岩倉具徳家(岩倉公爵家分家)、岩倉道倶家(岩倉公爵家分家)、正親町季董家(おおぎまち)(正親町伯爵家分家)、大村武純家(大村伯爵家分家)、北小路俊昌家(北小路子爵家分家)、北畠家久我侯爵家分家)、吉川重吉家(吉川子爵家分家)、九条良致家(九条公爵家分家)、九条良政家(九条公爵家分家)、黒田長和家(黒田侯爵家分家)、久我通保家(久我侯爵家分家)、小早川家毛利公爵家分家)、酒井忠積家(姫路酒井伯爵家分家)、酒井忠惇家(姫路酒井伯爵家分家)、佐竹義脩家(岩崎佐竹子爵家分家)、真田幸世家(真田伯爵家分家)、澤宣元家(澤伯爵家分家)、三条公輝家(三条公爵家分家)、四条隆平家(四条侯爵家分家)、島津健之助家(佐土原島津伯爵家分家)、島津忠欽家(玉里島津公爵家分家)、島津忠弘家(島津公爵家分家)、島津忠備家(島津公爵家分家)、尚寅家(尚侯爵家分家)、尚順家(尚侯爵家分家)、鷹司信熙家(鷹司公爵家分家)、伊達宗敦家(宇和島伊達侯爵家及び仙台伊達伯爵家分家)、伊達宗倫家(宇和島伊達侯爵家分家)、玉松家山本子爵家分家)、津軽楢麿家(津軽伯爵家分家)、鶴殿家九条公爵家分家)、徳川厚家(徳川公爵家分家)、徳川誠家(徳川慶喜公爵家分家)、徳川義恕家(尾張徳川侯爵家分家)、徳大寺則麿家(徳大寺公爵家分家)、長岡護美家(細川侯爵家分家)[注釈 1]今帰仁家(なきじん)(尚侯爵家分家)、中御門経隆家(中御門侯爵家分家)、鍋島貞次郎家(鍋島侯爵家分家)、二条正麿家(二条公爵家分家)、若王子家(にゃくおうじ)(山科伯爵家分家)、東久世秀雄家(東久世伯爵家分家)、東三条家三条公爵家分家)、坊城俊延家(坊城伯爵家分家)、細川護晃家(細川侯爵家分家)、前田利武家(前田侯爵家分家)、松崎万長家(堤子爵家分家)、松平斉家(津山松平子爵家分家)、松前隆広家(松前子爵家分家)、万里小路正秀家(までのこうじ)(万里小路伯爵家分家)、毛利五郎家(毛利公爵家分家)、山縣有光家(山縣公爵家分家)、山内豊尹家(山内侯爵家分家)[注釈 1]、鷲尾隆順家(鷲尾伯爵家分家)

奈良華族 - 旧公家の分家で興福寺僧侶になったが、維新後に勅令還俗して華族に列していた家は俗称でこう呼ばれた[28]。彼らも明治以降の華族の分家として男爵位を与えられた。旧公家華族自体貧しい家が多かったが、その分家である奈良華族はさらに貧しい家が多く、明治45年に制定された男爵華族救恤資金(年間300円の援助)の対象は主に奈良華族だった[16]粟田口家(あわたぐち)(葉室伯爵家分家)、今園家芝山子爵家分家)、太秦家(うずまさ)(桜井子爵家分家)、梶野家石井子爵家分家)、河辺家(油小路伯爵家分家)、北大路家阿野子爵家分家)、北河原家室町伯爵家分家)、小松家石井子爵家分家)、相楽家(さがら)(富小路子爵家分家)、鷺原家甘露寺伯爵家分家)、鹿園家三条公爵家分家)、芝小路家芝山子爵家分家)、芝亭家(裏辻子爵家分家)、杉渓家(すぎたに)(山科伯爵家分家)、竹園家(甘露寺伯爵家分家)、長尾家勧修寺伯爵家分家)、中川家甘露寺伯爵家分家)、西五辻家(にしいつつじ)(五辻子爵家分家)、藤枝家(ふじえ)(飛鳥井伯爵家分家)、藤大路家堀河子爵家分家)、穂?家(ほづみ)(坊城伯爵家分家)、松林家上冷泉伯爵家分家)、松園家二条公爵家分家)、南家広橋伯爵家分家)、南岩倉家岩倉公爵家分家)、水谷川家(みやがわ)(近衛公爵家分家)


地下家だった華族(2家) - 基本的に地下家は士族になっていたが、押小路家(おしこうじ)と壬生家(みぶ)は地下家の中でも家格が高く、他の地下の官人たちを統括し(それぞれ「大外記、官務」と呼ばれた)、官位も三位まで登る「准公卿」的存在だったため特別に華族に列していた[29]。しかし旧公卿の華族たちとは区別され「一新後華族二列セラレタル者」として男爵に叙された。押小路家と壬生家の華族取り立てを見て自分たちにも資格があると華族取り立て運動を行った旧地下家の士族(藤島家や細川家など)もあったが、結局押小路家と壬生家以外には華族の地位は認められなかった[29](旧地下家で勲功によって華族になった家はある)。

交代寄合だった旧大名華族(6家) - 江戸時代に交代寄合だった家のうち以下の6家は、1868年(慶応4年・明治元年)6月20日から11月20日の間に戊辰戦争で官軍に協力した功績で加増されたり、「高直し」で石高が万石以上になったことを政府に申告して認めてもらったことなどにより大名として立藩して華族に列していた[30][注釈 2]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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