男はつらいよ
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東海テレビ:木曜 22:00 - 22:45[18]

製作

1966年にフジテレビで放送されていた、渥美清主演の連続テレビドラマ『おもろい夫婦』が大ヒットしており、これをきっかけに昭和40年代の同局では、渥美の連続ドラマが毎年のように放送されていた。本作は第3作にあたる。

制作は、フジテレビと当時の渥美の所属事務所の高島事務所。企画と演出はフジテレビ制作部のディレクター兼プロデューサー(当時)の小林俊一[19]、同局の編成部では白川文造が係わった。

1968年夏、松竹の中堅監督であった山田洋次が、フジテレビから渥美主演のドラマの脚本の依頼を受けたことで本作の企画が始まった[13]。本作の原点となったのはフランスの国民的作家マルセル・パニョルによる喜劇「マルセイユ3部作」(『マリウス』〈1929年〉、『ファニー』〈1932年〉、『セザール』〈1936年〉)で、学生時代に演劇好きの友人から戯曲を借りて読み「なんとここには日本人しか分からないと思っていた落語浪花節の人情の世界がマルセイユを舞台にしてたっぷりと描かれているではないか」と感銘を受けた山田は後にフジテレビから渥美主演のテレビシリーズの脚本執筆を打診された際に青春時代に読んだ同シリーズを思い出し、「マリウスは博で、ファニーはさくら。セザールは渥美さんが演じた寅さん」と同シリーズに登場する愛すべき人物たちを中心にさらに熊五郎八五郎・ご隠居といった古典落語の登場人物も重ね合わせて本作の登場人物たちを構築[20][21]

主人公の「寅さん」については、執筆に先立って「ゆっくり話がしたい」と主演の渥美と東京・赤坂の旅館で対面し、まるで名人の落語を聞くかのように驚異的な記憶力とテキ屋の口上など豊かな話術で笑わせる渥美から「この人は本当に頭がいい人だな。こういう人が愚かな男を演じると面白い話ができるのでは」「落語に出てくる熊さんのようなキャラクターが、この人ならできるんじゃないか」との着想を得て、落語の熊さんと結びつけながら「下町の不良少年のなれの果て」という「寅さん」のキャラクターを創造していった[13][22]柴又帝釈天の舞台設定は、助監督時代に作家の早乙女勝元との打ち合わせの折に帝釈天参道で食事したことを思い出し、戦災から逃れた風情の残る街並みと「葛飾、柴又、帝釈天」の語感が良さから決定。ほどなく門前の団子屋の設定も決まった[13]

企画段階でのタイトルは『愚兄賢妹』という番組名だったが[23]、フジテレビの営業から「愚兄賢妹では堅苦しくて番組として売り難い」と言われたため、タイトルを変更することになる。そして、北島三郎が唄っていた『意地のすじがね』の中にあった「つらいもんだぜ男とは」という歌詞をヒントに、小林俊一が『男はつらいよ』と命名した。

他にも、同時期にTBS系列で放送されていた渥美清主演のテレビ映画『泣いてたまるか』の、最終話のタイトルが「男はつらい」であり、この回の脚本を山田洋次が書いていたことも決め手となった。他にも渥美清が良く口ずさむ歌が北島三郎であり、その作詞者が星野哲郎であることも主題歌の作詞を依頼する決め手になった。音楽の山本直純に関しては小林俊一がドラマを企画する際に好んで依頼していたのが山本であり、一連の渥美ドラマでも同様に山本直純に依頼した。
放送とその後

船山馨原作のベストセラー小説をドラマ化した『石狩平野』(脚本:早坂暁、主演:南田洋子)が不調で、1年の放送期間が半年に短縮された[注 4]。これにより、秋の番組編成に穴が空いてしまったため、本作の放送時間が木曜22時となる。今でこそ木曜22時は「木曜劇場」で定着しているが、当時のこの時間帯は他局が圧倒しており、大苦戦が続いたフジは同局の渥美ドラマの人気で打破したい思惑もあった。

放送開始当初こそ視聴率は苦戦を続けたが、回数を重ねる毎に少しずつ上昇していき、番組終了までに最高で20パーセント台を達するまでになった。視聴率としては高いとは言えないが、当時の状況を思えば大健闘の数字である。一部の資料では「3か月間13回を放送を延長して26回になった」という記述があるが実際は最初から半年間26話の予定であり、13話説は小林俊一が山田洋次を説得する際に出した打開案に過ぎない。

最終話で寅次郎は、ハブ狩りで一儲けしようと奄美大島に出かけるが、そのハブに噛まれて死んでしまう。寅次郎を死なせたことで、視聴者からはテレビ局に抗議の電話が殺到。これが映画化に繋がった[25]。しかし、当時はまだテレビ番組の地位が、映画から見てかなり低く見られていた時代であった。松竹は、テレビ番組の映画化に難色を示していたが[26][25]、山田洋次と松竹プロデューサー上村力の説得に折れる形で今で言うリブートの様な形で映画化された(当時、松竹の社長であった城戸四郎が山田の意見を汲みいれた)[27]
テレビドラマ版エピソード

寅次郎が首に下げているお守りは成田山新勝寺のもの、帽子は渋谷道玄坂の店で作られた特注品であり、撮影の邪魔にならないようにツバが既製品より短く作られている。帽子やシャツ、雪駄も手製であり、テレビ版終了後の打ち上げで商品としてそれぞれスタッフが一つずつ持ち帰ったものの、映画を製作にするにあたり慌ててすべて取り戻したという逸話がある。最終回の舞台は奄美大島であるが、これは沖縄が当時米軍統治下であり、ロケは徳之島で行われた。以上のエピソードは「テレビドラマ版DVD」の特典映像スタッフによる座談会で明らかにされている[28]

テレビ版では一度も柴又へロケに来ておらず、シーンは全てセットで制作されている[29]
映像の現存状況

テレビ版の映像は、フジテレビのライブラリーには第1話と最終話のみ現存している。その理由としては、以下の事柄も関係している。

当時のVTRの規格が
2インチで、機器・テープ共に高価だった。

当時は著作権法などの絡みにより、番組の資料保存が制約されていた。


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