甲骨の出土地が小屯村と判明したことで多くの収集家が訪れるようになった。1899年から1928年までの間に8万?10万片が私人によって発掘されたと言われている[22][23]。それ以上の遺跡の損壊や遺物の海外への流出を食い止めるため、また甲骨の発掘以外にも遺跡の全体的な調査を行うため、1928年10月に中央研究院歴史語言研究所が設立され、その下に董作賓らが率いる殷墟発掘調査チームが編成された。発掘調査は日中戦争によって中止となる1937年までに15回行われ、甲骨24918片が発見された。[24][25][26]
戦後に中華人民共和国が成立して以降は、1950年に設立された中国科学院考古研究所に発掘調査が引き継がれた。甲骨の大規模な発見としては、1973年の小屯南地甲骨、1991年の花園荘東地甲骨などがある。[27][28][29] 最も早く発見された西周甲骨は、1950年に四盤磨村
西周甲骨の発見
その後も西周甲骨は散発的に発見されている。大規模な発見としては2004年と2008年に岐山県周公廟遺跡のそれぞれH45地点とG2地点で発見されたものがあるが、現在のところ10数片しか公表されていない。[36][37] 甲骨文字は殷の最後の9人の王(武丁から帝辛まで)によっておよそ200年ほどにわたって使われていた。特定の甲骨文字がそのどの頃のものなのか特定する作業を断代と呼ぶ。 最も早く断代研究について明文化したのは王国維であり、1917年に『殷卜辞中先公先王考』と題する論文[38]において称謂を用いていくつかの甲骨文がどの王の時代に属するかを特定した。しかしこの頃は資料数が少なかったこともあり、王国維は先王の名が記された甲骨文に散発的に言及するのみであった。[39][40][41] 体系的な断代研究は、1928年に殷墟の科学的発掘調査が始まり資料数が増加したことで始まった。調査の指揮者の一人である董作賓は、1929年に発見された破砕の少ないほぼ完全な形を残していた亀甲に基づいて「貞人」を発見し、『大亀四版考釈』[42]にて貞人を含む8種類の基準から甲骨文の断代が可能であると提案した。その後『甲骨文断代研究例』[43]を著し、先に提案した(8種類から10種類に増やされた)基準の詳細とその実践を示した。董作賓は甲骨文を第1期(武丁)・第2期(祖庚・祖甲)・第3期(祖辛・康丁)・第4期(武乙・文武丁)・第5期(帝乙・帝辛)の5つのグループに分類した。[39][44][45][46] 1950年代に陳夢家は著書『殷虚卜辞綜述』[47]およびいくつかの論文で董作賓の分類を細分化した。結果的に、貞人組や書記集団は王世と正確に対応するわけではなく、同時代に複数のグループが共存したり複数の王にまたがるグループが存在することを示した[48][注釈 4]。陳夢家は貞人組に賓組・午組・師組・子組・出組・何組という名称を与えて分類を行った。そのうち、董作賓の分類では第4期(特に文武丁)とされていた午組・師組・子組が、実際には武丁の時代のものであることを示した。[39][49][50][51]
甲骨文の断代
断代研究の歴史