甲骨文字
[Wikipedia|▼Menu]
[19][20][21]
科学発掘

甲骨の出土地が小屯村と判明したことで多くの収集家が訪れるようになった。1899年から1928年までの間に8万?10万片が私人によって発掘されたと言われている[22][23]。それ以上の遺跡の損壊や遺物の海外への流出を食い止めるため、また甲骨の発掘以外にも遺跡の全体的な調査を行うため、1928年10月に中央研究院歴史語言研究所が設立され、その下に董作賓らが率いる殷墟発掘調査チームが編成された。発掘調査は日中戦争によって中止となる1937年までに15回行われ、甲骨24918片が発見された。[24][25][26]

戦後に中華人民共和国が成立して以降は、1950年に設立された中国科学院考古研究所に発掘調査が引き継がれた。甲骨の大規模な発見としては、1973年の小屯南地甲骨、1991年の花園荘東地甲骨などがある。[27][28][29]
西周甲骨の発見

最も早く発見された西周甲骨は、1950年に四盤磨村(小屯村の西隣)で考古研究所の殷墟発掘調査チームによって発見された牛骨である。3片発見された牛骨のうち1片に文字が刻まれていたが、刻まれていたのは卜辞ではなく数(筮竹を用いた占いの記録)であった。その後1960年頃まで同様の西周甲骨が毎年各地の遺跡で数片ずつ発見された。[30][31]

1977年陝西省岐山県鳳雛村H11地点より占卜用の甲骨16742片が発見され、1979年には同H31地点で同様の甲骨413片が発見された[32][33]。そのうち文字が刻まれていたのはH11出土が282片、H31出土が10片である。これらはながらく部分的にしか公表されていなかったが、2002年に『周原甲骨文』[34]が出版され、(破損したものを除く)全ての有字甲骨のカラー写真が公開された[35]

その後も西周甲骨は散発的に発見されている。大規模な発見としては2004年2008年に岐山県周公廟遺跡のそれぞれH45地点とG2地点で発見されたものがあるが、現在のところ10数片しか公表されていない。[36][37]
甲骨文の断代

甲骨文字は殷の最後の9人の王(武丁から帝辛まで)によっておよそ200年ほどにわたって使われていた。特定の甲骨文字がそのどの頃のものなのか特定する作業を断代と呼ぶ。
断代研究の歴史

最も早く断代研究について明文化したのは王国維であり、1917年に『殷卜辞中先公先王考』と題する論文[38]において称謂を用いていくつかの甲骨文がどの王の時代に属するかを特定した。しかしこの頃は資料数が少なかったこともあり、王国維は先王の名が記された甲骨文に散発的に言及するのみであった。[39][40][41]

体系的な断代研究は、1928年に殷墟の科学的発掘調査が始まり資料数が増加したことで始まった。調査の指揮者の一人である董作賓は、1929年に発見された破砕の少ないほぼ完全な形を残していた亀甲に基づいて「貞人」を発見し、『大亀四版考釈』[42]にて貞人を含む8種類の基準から甲骨文の断代が可能であると提案した。その後『甲骨文断代研究例』[43]を著し、先に提案した(8種類から10種類に増やされた)基準の詳細とその実践を示した。董作賓は甲骨文を第1期(武丁)・第2期(祖庚・祖甲)・第3期(祖辛・康丁)・第4期(武乙・文武丁)・第5期(帝乙・帝辛)の5つのグループに分類した。[39][44][45][46]

1950年代に陳夢家は著書『殷虚卜辞綜述』[47]およびいくつかの論文で董作賓の分類を細分化した。結果的に、貞人組や書記集団は王世と正確に対応するわけではなく、同時代に複数のグループが共存したり複数の王にまたがるグループが存在することを示した[48][注釈 4]。陳夢家は貞人組に賓組・午組・師組・子組・出組・何組という名称を与えて分類を行った。そのうち、董作賓の分類では第4期(特に文武丁)とされていた午組・師組・子組が、実際には武丁の時代のものであることを示した。[39][49][50][51]

1976年婦好の墓が出土した。当時の見解では (1)祖庚・祖甲時代の卜辞に登場する父丁(=武丁)の妻, (2)武乙時代の卜辞に登場する父丁(=康丁)の妻 の二人の「婦好」が存在するとされており、どちらを指すものなのかが議論になった。1977年李学勤は、董作賓や陳夢家によって武乙(一部は文武丁)時代のものとみなされていた「歴組」は実際には祖庚・祖甲(一部は武丁)の時代のものであり、したがって「康丁の妻の婦好」なる人物は存在せず(1)と(2)はともに「武丁の妻の婦好」を指すと提唱した[52]。さらに1979年に開かれた第一回古文字学会にて、武丁以降の殷王朝には小屯村の北と南にそれぞれ占卜機構が存在し、甲骨のグループでは「(師組→)賓組→出組→何組→黄組」の流れは村北系に、「師組→歴組→無名組(→黄組)」の流れは村南系に属するという「両系説」を提唱した。李学勤による歴組早期説は激論となったが、当初否定的だった裘錫圭は意見を翻し、賓組や出組(武丁・祖庚・祖甲)卜辞に記録されている事柄が歴組卜辞にも記録されている例[注釈 5]を大量に収集し、歴組が賓組・出組と同時代のものである証拠として発表した[53]。林?も当初否定派だったが、主に文字の書き方の流行の変遷に着目して歴組早期説に賛同した[54]。その後も多くの学者から証拠が次々に提出された結果、現在では否定派の学者はごく一部であり、歴組早期説が定説となっている。[55][56]

その後の断代研究では、筆跡鑑定によって甲骨文字の書記を同定することでグループのさらなる細分化が行われている。李学勤や林?が重視した「先に時代の近い物をグループ化し、その後各グループがどの時代に位置するかを考察する」というアプローチが浸透したため、初期の研究のように甲骨文を直接王世に関連付けるような方法は一般に行われていない。[46]
董作賓による10種類の基準

董作賓 (1933)は断代研究の基準として10の項目を挙げている。[57][58][59]
世系
史記』に基づく殷王の系譜。殷の王は死後、十干諡号を与えられ、その十干の前に区別のためのなんらかの単語を付した形で呼ばれた。例えば『史記』では「武丁」「文丁」などの王名が記録されている。称謂と比較することで時代が特定される。逆に甲骨文字から『史記』の誤りが発覚することもある。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:114 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef