甲賀流
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この項目では、忍術流派について説明しています。飲食店については「甲賀流 (たこ焼き)」をご覧ください。

甲賀流(こうが/こうかりゅう)は、近江国甲賀(現在の滋賀県甲賀市周辺)に伝わっていた忍術流派の総称。南東へ山を隔てた伊賀国(現在の三重県西部)の伊賀流と並び、最も有名な忍術の一派として知られる。甲賀流、伊賀流ともに伝系に関しては仮託の説が多く、信用できるものはあまりない[1]。甲賀忍者と伊賀忍者の対立・対決を題材とした多数の創作により形成されたイメージ[2]の影響も大きいが、民家で史料が発見されるなど実像の研究も進み、少なくとも江戸時代には確実に存在したとされている[3]。なお、「甲賀流」という名称の単一の流派は存在せず、あくまで甲賀に伝わる複数の流派があわさって甲賀流と呼ばれているにすぎない(甲賀の地侍は「甲賀衆」と当時から呼ばれた[2])。

地名から甲賀流を「こうか」と読む場合があるが、現在では「こうが」の読み方が一般化しており、こちらを正式と認識されることが多い。歌川国貞『今源氏錦絵合 須磨 十二』
特徴

現在の滋賀県甲賀市(こうかし)、湖南市にあった。普段は農業をしたり、行商をしたりして各地の情報を探る一方、指令が下ると戦場やその後方へ出向き、工作活動に励んだ。手妻に優れると評され、忍術の流派の中でもの扱いに長けており、その名残として甲賀には今も製薬会社が多い。また、女性の忍者が存在しなかったことでも有名である。

室町時代から戦国時代中期にかけて、甲賀は六角氏の傘下に属しながらも「」(そう)を形成し、に関わる全ての案件を多数決によって決定(合議制)・運営するなどしていた。これはこの時期では全国的に見ても極めて珍しいことであった。甲賀の地侍は自治を認められる代わりに、戦時は六角氏に協力しており、後述する「鈎の陣」での夜襲などでの活躍から、甲賀衆が後世で言う「忍者」として認識あるいは起用されるようになった[2]
歴史

古代、大伴氏の一族である伴宿禰が甲賀郷長となり、この地方の豪族として在任していた(大伴細人)。

平安時代に、その末裔が派生して武士化・土着化し、次第に甲賀武士が形成された。また鈴鹿関東国への重要な関門であり、甲賀武士が守りを務めた。

戦国時代の甲賀は小領主達が「同名中」(どうみょうちゅう)という一族集団を形成していた。独立性が高く、甲賀には屋敷を土塁や堀で囲んで外敵に備えた城館や城砦が180以上あった[2]。後述するように六角氏を助けて戦ったものの、その支配は十分に及ばなかった。後に織田信長が台頭して来るとそれら甲賀の侍衆たちは甲賀郡を単位とした連合体を結成する。それが甲賀郡中惣である[4]

室町時代後期、観音寺城に本拠を構える近江佐々木六角氏が着々と力を蓄え、室町幕府の命令を軽視あるいは無視し始めたことから、長享元年(1487年)に将軍足利義尚がこれを征討するために軍を発し、六角勢との間に戦いが行われた(鈎の陣)。義尚が諸国の大名を動員して六角氏の本拠観音寺城に迫ると、六角高頼は幕府軍との直接対決を避けて甲賀城に移動した。そこで義尚は本陣を栗太郡に位置する鈎の安養寺へ移し、甲賀城を攻めてこれを落城させるのだが、脱出した六角高頼は配下の甲賀武士達に命じ、山中でゲリラ戦を展開して頑強に抵抗した。「亀六ノ法」という、高頼の考え出した戦法がある。敵が攻めてきたら、のごとく甲賀山中に隠れ、敵が長陣に疲れ果てるのを待って、亀が手足を出すがごとく突然現れて攻撃するものである[5]。その他、甲賀武士達は山中でその地の利を生かして様々な奇襲をかけ、また時には夜陰に乗じて義尚の本陣に迫って火や煙を放つなど、幕府軍を散々苦しめたという[6]。そのためなかなか決着はつかず、長享3年(1489年)には義尚が陣中に没したため、足かけ3年にわたった戦いは終結、六角氏は生き残った。そして、この戦いに参加した五十三家の地侍達を「甲賀五十三家」と呼び、さらに五十三家の中で六角氏より感状を貰い重きを置かれた家を「甲賀二十一家」と称される[2]

以後、甲賀の侍衆は六角氏と行動を共にした。六角義賢観音寺城の戦い織田信長に敗れると、甲賀へ逃れて信長と戦うことになったが、野洲河原の戦いで甲賀の侍衆が加わった六角軍は信長に敗退した。その後も戦は続くが、やがて六角氏が没落すると甲賀は織田信長の支配下に入ることになる[7]。信長の家臣の滝川一益は、甲賀出身という説もある。本能寺の変の際は、信長とともに討たれた森蘭丸の弟である森忠政とその母・妙向尼を甲賀の侍衆の伴惟安が甲賀の自領で匿った。後に伴氏は森忠政の家臣となる。本能寺の変を知り、本国三河へ帰還した徳川家康伊賀越えでは、山口光広が家康に同行していた信長の家臣の長谷川秀一の求めに応じ、実兄の多羅尾光雅とともに甲賀の侍衆などを率いて家康一行の道中を警固した。


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