甲武鉄道
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また、東京市内区間での旅客が増えたことから1904年8月21日に飯田町 - 中野間を電化[6]、日本の普通鉄道では初めて電車運転を行った。車体長10m程の二軸車ではあったが、総括制御を採用し重連運転も可能で、郊外電車として十分な性能を備えていた。詳しくは甲武鉄道の電車を参照されたい。この電車運転区間は複線化されていた。
年表

1886年(明治19年)11月10日 甲武馬車鉄道に対し馬車鉄道敷設免許(内藤新宿 - 新座郡上保谷村新田 - 八王子間)
[7]

1888年(明治21年)3月31日 鉄道布設免許状下付(武蔵国南豊島郡内藤新宿 - 武蔵国南多摩郡八王子間)[2]

1889年(明治22年)4月11日 開業(新宿 - 立川間)[8][9]

1889年(明治22年)7月13日 仮免状下付(新宿停車場 - 神田区三崎町間)[5]

1889年(明治22年)8月11日 開業(立川 - 八王子間)[10]

1893年(明治26年)3月1日 鉄道敷設免許状下付(新宿 - 四谷 - 飯田町間)

1894年(明治27年)9月17日 新宿-青山軍用停車場間落成。11月陸軍より委託。1896年(明治29年)9月25日委託解除

1894年(明治27年)10月9日 開業(新宿 - 牛込間)[11]

1894年(明治27年)12月 川越鉄道の委託により営業管理

1895年(明治28年)4月3日 開業(牛込 - 飯田町間)[12]

1895年(明治28年)12月30日 新宿 - 飯田町間複線化

1896年(明治29年)4月 青梅鉄道の委託により営業管理

1897年(明治30年)11月9日 青梅鉄道との管理契約解除

1898年(明治31年)6月30日 免許状下付申請却下(四ツ谷 - 烏森間)[13]

1898年(明治31年)12月1日 仮免状下付(飯田町 - 鍛冶町間)[14]

1900年(明治33年)4月25日 免許状下付(飯田町 - 鍛冶町間)[15]

1900年(明治33年)5月18日 免許状下付申請却下(四ツ谷 - 有楽町間)[16]

1904年(明治37年)8月21日 電車運転開始(飯田町 - 中野間 架空複線式、直流600V)[6]

1904年(明治37年)12月31日 電車運転開始(飯田町 - 御茶ノ水間)[17]

1906年(明治39年)10月1日 鉄道国有法により国有化

武蔵野のルート策定経緯

現在も中央本線が走っている、本路線のうちの東中野駅(甲武鉄道時代は柏木) - 立川駅を結ぶ約27.4 kmの直線経路は、1964年新幹線の開業までは日本全国で3番目に長いものであった。東西方向へほぼ完全な一直線であることから、東京の地図空中写真を見ても目につくものとなっている。

この東京都心新宿から西へ延びて武蔵野多摩)とを結ぶ路線は、同地域を結ぶ街道であり江戸時代には基幹道路であった甲州街道や、庶民に利用された青梅街道からは離れており、多摩地域の要衝として発展していた府中等の既存の都市を通らない経路であった。
経路策定の理由

このような当時の主要街路とは異なる路線を建設された理由に関して、本路線を継承した東日本旅客鉄道(JR東日本)の広報部は「諸説あることは認識しているが、社内で根拠を持って話せる人はいない」と述べている[18]
反対運動説

「当初は甲州街道あるいは青梅街道沿いのルートを予定していたが、住民の反対運動により当時は田園・林野だった場所を一直線に突っ切る現路線に変更された」と言った言説が各自治体史や朝日新聞『中央線』などと言った戦後の文献に掲載されており、馬車鉄道の計画の際に「自然作物の成長が阻まれる」「街道がさびれる」(明治18年8月の南豊島郡9村、9月の和田村外3村の陳情)と言った反対の声があったことは確認されている。
仙石貢の即断説

また、甲部鉄道開業を担当する工部省官僚であった仙石貢(後の鉄道大臣)が独断で即決したと言う説もある。鉄道ジャーナリスト青木槐三の著書「鉄道黎明の人々」(1951年発行)の記述によれば、「雷親父の仙石が『武蔵野の原だ、これでいい』と地図上にグーンと太い鉛筆の線を引いた」と言う[18]

この説に関してJR東日本鉄道博物館は「豪傑伝の可能性もあり真偽は不明」としている[18]
効率上の理由説

反対運動説に対して、「鉄道忌避伝説」を唱える立場からは、全国のそう言った言説を調査して『鉄道忌避伝説の謎?汽車が来た町、来なかった町』を著した地理学者青木栄一は「馬車鉄道から蒸気鉄道への動力変更に当たって、建設が鉄道局に委託されたため、(平坦・効率的な最短の)武蔵野台地上の一直線ルートが考えられたと思う」と指摘している。

また、JR東日本の鉄道博物館の副館長であった荒木文宏も「勾配など地理的条件、コスト面などから、20km以上の直線は作る側にとって最も理想なルート」と説明した[18]

さらに、江戸東京博物館学芸員として中央線を研究した真下祥幸は、「蒸気機関車の能力、燃料供給、土地買収などから地理的に最も合理的なルートを選んだ」と分析した。真下は次の理由から推測した[18]

現路線のルートは甲州街道などより平坦で勾配差が無いため、機関車の馬力が弱いと言う弱点を克服出来た。

開業時からあった国分寺立川などの駅も、機関車を動かすのに必要な水を用水路から供給する契約が成立した地域が選ばれている。

当時の沿線はばかりであり、既存の民家が集積する街道沿いよりも用地買収がしやすかった。

建設費をなるべく抑えるために単純な直線になった。

また真下は、「住民の反対運動のせいと言う説や、仙石貢が独断で決めたと言う説は、いずれも考えづらい。」と指摘した。真下は次の理由から2説を否定している[18]

甲武鉄道が開業した1889年は日本初の鉄道開通(新橋 - 横浜間)から20年近くが経過しており、すでに民衆から鉄道への抵抗感は弱まり、むしろ経済効果が注目されていた(実際に、1890年に開業した本路線の日野駅をめぐっては、住民から駅を設置してほしいという請願運動があった)。

当時の測量技術から、仙石が無策に線を引いて路線を決めることは考えづらい。

関連する路線

現在の西武国分寺線及び新宿線の東村山 - 本川越である川越鉄道、及び青梅線である青梅鉄道は、甲武鉄道の支線に当たる。いずれも甲武鉄道が東京市内への延長線建設に追われていたため、地元の資本を利用して設立したもので、その株主は甲武鉄道の主要株主と沿線在住者で構成されていた。特に、軌間が同じである川越鉄道とは、直通運転等が実施されていた。

しかし、1906年の鉄道国有法制定によって甲武鉄道が国有化されると、川越鉄道と青梅鉄道は独立した存在となった。特に川越鉄道は、鉄道国有法原案では、甲武鉄道とともに国有化される予定となっていたが、これは貴族院での審議によって修正され、川越鉄道は民営鉄道としての独立を保ったという経緯があった。

甲武鉄道からの分離後、都心に接続するルートを断たれた川越鉄道は都心乗り入れを目指し、いくつかの合従連衡を経て、西武鉄道という社名になった後、1927年、山手線高田馬場駅に至る村山線を開通させた。これは、後の西武新宿線に当たる。さらに終戦直後の1945年9月には、後の西武池袋線となる路線を保有していた武蔵野鉄道との合併により、現在の西武鉄道のネットワークが形作られることとなった。

一方、青梅鉄道は、当初免許が下付された青梅町までのルートからさらなる延伸を地道に続け、青梅電気鉄道への改称を経て、1929年には御嶽駅までの延伸を果たす。しかし、戦時中、青梅電気鉄道は、戦時買収私鉄の一つに数えられてしまい、1944年国有化を迎える。さらに国有化の直後には後の奥多摩駅である氷川駅までの全通を果たし、日本国有鉄道傘下となった1950年代には、中央線に直通する青梅―東京間の電車が定期化されることとなり、現在の青梅線の運転形態が形作られて言った。


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