甲本ヒロト
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自ら奨学金を得、渋谷区幡ヶ谷四畳半14000円のアパートに住む[2]。大学は2年の時に中退[3][2]

ラウンド・アバウトは1982年頃に解散し、ザ・コーツを結成するが、1984年に解散。

1985年真島昌利らとTHE BLUE HEARTSを結成。1987年にシングル「リンダリンダ」で、メルダックからメジャー・デビューした。1994年、THE BLUE HEARTSは活動休止。1995年に解散を発表した。THE BLUE HEARTSが活動休止中(実際には解散状態)の1995年、ソロアルバムを制作し、ジャケットデザインやレコーディングも完了していたが、前所属事務所との契約上のトラブルにより未発表に終わった。真島と共に有限会社HAPPY SONGを設立。 1997年9月には、真島と共に資金を出して機材倉庫を改装して造られた、アトミック・ブギー・スタジオが完成。

1995年、真島に誘われTHE HIGH-LOWSを結成。10月25日、シングル「ミサイルマン」、アルバム「THE HIGH-LOWS」を同時発表。2005年に活動休止を発表。

2006年春、真島らとザ・クロマニヨンズを結成、7月23日を皮切りに大型ロック・フェスの出演とツアーを敢行した。9月20日にシングル「タリホー」を発表。同年7月には、ソロ・シングル「真夏のストレート/天国うまれ」を発表。ギターのみならず、ベースドラムスなど、ほぼ全てのパートを一人で演奏。

2007年10月に急性疾患に罹り、予定していたライブを延期する事態となったがその後、復帰。

2017年7月にバイクで転倒し鎖骨、肋骨を骨折。予定していたライブを延期する事態となったがその後復帰し、アームホルダーで腕を吊りながらライブを行った。

2019年、内田勘太郎とブギ連を結成、6月26日にアルバム「ブギ連」を発表。
音楽

中学生時代、セックス・ピストルズマンフレッド・マンに衝撃を受け、「中学を卒業したら高校へは行かずに、上京してロックンローラーになりたい」と親に言うも、反対される。

シド・ヴィシャスの影響で元々はベーシストに憧れていたが、「誰にでも出来る」という理由でボーカリストになった。高校3年生の夏休みに、ボーカルが抜けた友人のバンド、ラウンド・アバウトに誘われて加入。これがバンド初体験だった。

THE BLUE HEARTS初期は荒削りな歌声だったが、アルバム「BUST WASTE HIP」以降、THE HIGH-LOWSまでは歌い方が変わっている。だが、ザ・クロマニヨンズからは再び、THE BLUE HEARTSの頃を彷彿させるような、がなり立てる歌い方をする曲もある。曲によっては、ギター、10穴ハーモニカ(H0HNER社製のSpecial 20を愛用)を演奏する。ハーモニカを始めるきっかけは、ドクター・フィールグッドレコードを聴いて、自分でも出来そうな気がしたからという。

パンクロックだけでなくブルースも好きで、インタビューや歌詞に、マディ・ウォーターズサニー・ボーイ・ウィリアムスン等のブルースシンガーの名前がよく出てくる。

最初に音楽を始めるきっかけとなったのは、岡山に大好きなシーナ&ザ・ロケッツがツアーで来た際、親に「不良が多いからダメだ」と言われ、ライブには行けなかったが諦めきれず、ライブ後にシーナ&ロケッツがラジオ番組に出ると聞いて放送局の裏口に父親と一緒に待ち伏せし、「サインをください」と駆け寄ったエピソードが有名。その際、鮎川誠シーナに初めてラジオ局の中に連れて行ってもらいラジオ放送を見学後、鮎川に「僕、まだロック未体験ですけど、僕にもロックンロールが出来るような気がするんです」と発言。「大丈夫。きっと出来るよ!」と強く言われたことが、THE BLUE HEARTS結成のきっかけである。下北沢の老舗中華料理屋「a亭」でバイトしていたのも、鮎川とシーナが下北沢に在住していたということからだった。さらに1995年のTHE HIGH-LOWS結成前夜には、「今、新しいことをしようって思っていて、だからもう一度、二人に会ってみたかった」と、ヒロトの希望により鮎川誠とシーナとの対談が初実現した喜びを音楽雑誌「PATI PATI ROCK'N'ROLL」の誌面で語っている。THE BLUE HEARTSの1stアルバムはシーナ&ザ・ロケッツの奈良敏博、浅田孟ベース)がプロデュースに関わっている他、2014年のシーナ&ザ・ロケッツのオリジナル・アルバム『ROKKET RIDE』の発売に際しては「憧れです。シーナ&ザ・ロケッツに憧れない奴なんかいるのか? 全てのロックンロール小僧に勇気を!!」と祝福コメントを出している。
歌詞

平易な言葉を使い、誰でも一度は心に思ったことがある心情を表現している。

バンド、年代によってテイストが微妙に変わっており、THE BLUE HEARTS初期?中期では飾り気なくストレートな歌詞が人気を博し、THE BLUE HEARTS後期からTHE HIGH-LOWS、ザ・クロマニヨンズの現在に至るまで、初期からの平易な言葉遣いは一貫している。

バイク(「MONKEY」「ピストン」「49cc」「おれ今日バイク」)、釣り(「テトラポットの上」「ユウマヅメ」)、NBA(「フルコート」)、ルチャリブレ(「Born To Be Pooh」「メキシコの星」)など、好きなものをモチーフにした歌詞がある。
真島昌利との関係

THE BLUE HEARTS結成以前は、甲本はザ・コーツ、真島はTHE BREAKERSと、別のバンドで活動していたが、その頃から顔見知りであった。

真島とはTHE BLUE HEARTSから、30年以上バンドを組み続けている。甲本のインタビューによれば、若い頃から、将来は親の世話になろうと思っていて、働く気の無かった自分を[注 1]、真島が「お前はやれば出来る子なんだよ!」と、叱咤激励し続けてきたと語っている。また、上京して友達がなかなか出来なかった甲本にとって[注 2]、誰より自分を理解してくれた真島を、「自分にとって特別な存在だから、彼の期待を裏切りたくない」と言っている。真島とはプライベートでの交流も盛んであり、休日には二人で中古レコード店を回ったりすることもある。2013年2月8日放送の「ミュージャック」(関西テレビ)で、真島と一緒に東京ディズニーランドに行った際、チップのグリーティングに割り込んで写真を撮ろうとして、チップに注意されたエピソードを披露した。また、外出先で偶然、真島と遭遇することも頻繁にあるという。かつて笹塚で同居していた頃、朝起きて映画館まで歩いて行くと、中から真島が出てきたことがあったり、レコード屋で遭遇したりするといい、一度ロンドンのポートベッロでばったり会ったことがある。

THE BLUE HEARTS結成直後、真島とバンドの今後について話し合いをしていたところ、突然、「『バッテンロボ丸』の再放送が観たい」と言って自分の部屋に戻ってしまった。これに真島は激怒し、甲本の部屋に突入するや否や、甲本が「ちょっと待って、この番組が終わってから」と言ったその時、真島がテレビのコンセントをブチッ!と抜き、甲本に「こんなもの(テレビ)があるからいけないんだ!」と言ってテレビを撤去し、隣に住んでいた山川のりをの部屋に持っていってしまった[4]。普段は温厚な真島のあまりの激高ぶりにショックを受けた甲本は、信用を取り戻すため、「ブルーハーツのテーマ」「リンダリンダ」を制作した。特撮やアニメなどテレビの子供番組が大好きな甲本にとってはショックだったものの、他人と一緒に何かをやって行く時に大事な態度や考え方を学ぶ機会になった。
人物・エピソード

安美錦の大ファンで親交があり、共に対談を行ったり[5]、断髪式に出席したりする間柄[6]

作曲に関して本人は「常時スランプ」と2017年の安美錦との対談で語っており、1曲作ると「もう出てこないな」「出てこなかったらバイトするしかないな」と毎回思っていたという[7]

かつてライブ中に下半身を露出したりなど過激なパフォーマンスも行っていた。

好物はハムと豆。「ナッツ」ではなく「ビーンズ」が好きだという。

幼少時代のあだ名は「ボケ作」(小学校の担任教師が名づけた)。

子供の頃、桃太郎少年合唱団に所属していて賛美歌などを歌っていたといわれるが、過去の定期演奏会パンフレットや名簿、記念誌などに彼の名前は存在しない。

小学校の夏休みの宿題に爪楊枝を折って「歯の裏をほじれるツマようじ」として提出した。毎年、夏休みの宿題を提出していなかったヒロトは、参観日の日に母親に褒めてもらえると期待していたが、作品に気付いてもらえなかった。それを聞いた真島は、「他の人の作品の部品が転がってると思ったんじゃない?」と追い討ちをかけた[8]

高校時代は剣道部。

実家はクリーニング店「ドライ甲本」を経営していた(2013年現在は閉店)。父について、「父親はアイロンを握っている姿が一番カッコよかった」と語っている。また、店内には本人のポスターが飾られており両親が訪れたファンに接していた[9]

上京を志した時、父親を説得できなかったため激昂し殴りかかってしまい、泣きながら謝罪したと語っている。後に高校卒業後、大学進学を口実に上京した。


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