甲斐バンド
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初めて照明にミラーボールが登場(曲は「LADY」)。


1979年

2月26日、『HERO(ヒーローになる時、それは今)』で、SEIKOの腕時計のCMのタイアップもあり、爆発的に知名度を広げ、初のチャート1位を獲得(オリコン)。

3月5日、初めてのベスト・アルバム「甲斐バンド・ストーリー」発売。リリース翌週にチャート1位を記録(オリコン)。

3月15日TBS-TV 「ザ・ベストテン」出演(ランキング3位)。NHK-FMの自分の番組の公開録音スタジオからの生中継、司会者(黒柳徹子久米宏)と話をしない、などの条件を付けた。

9月24日、ロックバンドとして初めてNHKホールでコンサートを開催。その模様がNHK-TVの「ヤング・ミュージック・ショー」にて放映される。

10月5日、シングル『安奈』発売。チャート最高位4位を記録、『HERO』に次ぐ大ヒットとなる。

12月12日、甲斐よしひろのラジオ番組『サウンド・ストリート』にて、ベースの長岡和弘の脱退が発表される。

12月21?22日、日本武道館にて2日間連続公演。1979年から1985年まで武道館での2daysコンサートが、年末の恒例イベントとなる。なお、この年85回のコンサートを行ない、20万人を動員。1982年まで動員数No.1バンドとなる。


1980年

3月20日、ドラムスの松藤英男がリードボーカルのシングル『ビューティフル・エネルギー』発売。カネボウ化粧品のCMに起用され、ヒット曲となる。

4月12日、この日より半年間のテレビドラマ「学園危機一髪」の主題歌として、『漂泊者(アウトロー)』が流れる。

7月1日横浜文化体育館で、初めてのスタジアム・コンサートを決行。これ以降、同年12月、82年12月、83年12月、84年12月と大都市でのスタジアム・ツアーを開催する。

8月10日箱根芦ノ湖畔(箱根ピクニックガーデン)で初の野外イベント『100万$ナイトin箱根』を開催。24,000人を動員する。


1981年

2月7日、前年12月9日の日本武道館ライブが、NHK-TV「ヤング・ミュージック・ショー」で放映。甲斐よしひろが楽屋で「ジョン・レノン殺害」の新聞を破り、「逝ってしまったジョン・レノンの為に…」と『100万$ナイト』を熱唱した名場面がオンエアーされる。

8月、所属事務所シンコーミュージックより独立。マネージャーの佐藤剛と共に(株)ビートニク(BEATNIK)設立。

9月13日、『KAI BAND SPECIAL LIVE 1981』として、大阪花園ラグビー場での野外イベントで22,000人を動員。2曲目の『翼あるもの』のイントロとともに、1万人以上の観客がステージに殺到し、演奏を中断するというハプニングが起きる。

11月15日、3年間のコンサートツアー及びプライベートを収めた写真集『1982:BEATNIK』が小学館より発売。


1982年

2月7?12日、ニューヨーク3部作の第1弾のアルバム『虜-TORIKO-』のミックスダウンが、パワー・ステーションにて行われる。ミキサーはボブ・クリアマウンテン(Bob Clearmountain)。

6月17日品川プリンスホテル・ゴールドホールにおいて、観客席は椅子なしで6000人のスタンディングという日本初のスタイルで、コンサート開催。

12月2日日本武道館でのコンサートのMCにて「いいモノを創る時間をくれよ…」と、翌年のライブ日程が白紙である事を告げる。


1983年

5月、新アルバム『GOLD/黄金』のトラックダウンのため、ニューヨークへ渡航。

8月7日、当時の西新宿の高層ビル街で、大規模な野外イベント『THE BIG GIG』を開催。外野を含め、3万人近い観客を集める。この日の模様はアルバム・ビデオ・TV放送・FM放送など、様々なメディアで再現された。


1984年

6月、ギタリストとして、田中一郎が加入。

7月、甲斐よしひろが、新シングル『フェアリー(完全犯罪)』のプロモーションビデオ撮影中に負傷のため、緊急入院。5か所のコンサートが延期される。

11月、ニューヨーク3部作完結作『ラヴ・マイナス・ゼロ』ミックスダウンのため、再度ニューヨークへ。


1985年

3月1日、アルバム『ラヴ・マイナス・ゼロ』を1年8か月ぶりに発表。1か月以上に及ぶ、同アルバムのプロモーション・ツアーも同日、新潟県民会館よりスタートする(13か所17公演)。

3月31日?4月1日、両国“新”国技館のこけら落としとして『BEATNIK TOUR in 両国国技館』を開催。


1986年

3月3日、甲斐バンド解散を発表。

3月14日、ファイナル・コンサート・ツアー『PARTY』を開始(全国50ケ所)。

5月28日フジテレビの「夜のヒットスタジオ・DELUXE」に生出演。別スタジオでの特別ゲストとして、『BLUE LETTER』、『漂泊者(アウトロー)』の2曲を披露。

5月29日、フジテレビ系列にて、デビューから解散までの12年間の映像ドキュメンタリー番組「甲斐バンド 十二年戦争-栄光の軌跡-」、放送。

6月23?27日、『PARTY』ツアーファイナル。ラストライブを日本武道館で5日間開催。

6月29日、横浜・黒澤フィルムスタジオにて開催された、1500人限定(ちなみにチケットの応募が20万通あった)の正装・フリードリンク付き・オールスタンディングのシークレット・ギグを最後に、甲斐バンド解散[3]。甲斐はソロ歌手として活動を開始。

8月6日、ツアーファイナルのダイジェスト番組「甲斐バンド LIVE AT 武道館-完結編」、フジテレビ系列で放送。

12月、解散ツアーの映像を中心に制作されたドキュメンタリー映画『THE KAI BAND MOVIE HERE WE COME THE 4 SOUNDS』が、全国で上映。


期間限定の復活と再始動

1996年

10年ぶりに期間限定で再結成。

7月24日、セルフリメイク・アルバム『Big Night』の発表。

8月?10月、リメイクアルバムと同名のコンサートツアーを開催(5会場6公演でのべ2万7000人を動員)、ツアーファイナルは10月12日、日本武道館。福岡・天神でストリートライブも行われた。

9月19日、期間限定復活の締めくくりとして、10年ぶりの新曲『ティーンエイジ・ラスト』をリリース。


1998年

2月27日福岡サンパレスにおいて一夜限りのライブ、『ONLY ONE NIGHT』(アマチュア時代の甲斐を見い出した、KBC岸川均の引退記念としての「KBC九州朝日放送45周年記念“伝説ライブ”」の一環)を開催。


1999年

11月13日新高輪プリンスホテル 大宴会場 「飛天」にて開催された『Golden Thunder Review Standing in 飛天』から活動を再開させる。

12月10日、3年ぶりのシングル『トレーラー・ハウスで』をイーストウェスト・ジャパンより発表。


2001年

6月6日、15年ぶりのオリジナル・アルバム夏の轍』を発表、同月から全国ツアー『KAI BAND BEATNIK TOUR 2001 Do you beat?』(追加公演を含む全11公演)を開催。
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