紙テープ、紙吹雪、ウェーブ、携帯電話ないしペンライトなどによる光を発した応援は常時禁止されている。また周囲が住宅地であるため、周辺環境に配慮して午後10時以降はトランペット・太鼓を使った鳴り物応援は禁止となる。ただし、タイガース勝利時の『六甲おろし』は午後10時以降でも合唱される。また、ジェット風船の使用も2020年以降は感染症対策として禁止されている。
ちなみに、メディア上において敷地などの面積を示す際の慣用単位として東京ドームが用いられることが多いが、関西圏ではその代わりに「甲子園球場△個分」という表現が使用されることがある(「東京ドーム (単位)」を参照)[9]。総面積が球場の面積のことを表すとすれば、約38,500m2が一個分となる[10][11]。 第1回大会、第2回大会を箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が所有する大阪府豊能郡豊中村(現・豊中市)の豊中グラウンドで、第3回大会以降は阪神電鉄が所有する兵庫県武庫郡鳴尾村の鳴尾球場(鳴尾競馬場馬場内)で開催していた全国中等学校優勝野球大会であったが、開催を重ねるごとに徐々に注目を集めるようになっていた。鳴尾球場はフィールドを2面設け、5千 - 6千人の観客を収容する木造移動式スタンドを並べていたが、1923年の第9回大会準決勝の甲陽中(兵庫) - 立命館中(京津)戦において、観客がグラウンドになだれ込み、試合が一時中断する事態となった。球場設計のモデルになったポロ・グラウンズ(1923年) この事態を重く見た同大会主催の大阪朝日新聞は、阪神電鉄に対して本格的な野球場建設を提案。電鉄側も同年、武庫川改修工事によって廃川となった枝川・申川跡の開発の一環で運動場の建設計画を進めていたこともあって、双方の利害が一致した。設計に当たっては、当時国内にあった野球場では参考になるものがなく、当時のニューヨーク・ジャイアンツの本拠地であったポロ・グラウンズをモデルに設計されたと言われている[16][17]。完成するまでの仮名称は「枝川運動場」であったが、完成予定の大正13年(1924年)が十干十二支の最初の組み合わせで縁起の良い甲子年(きのえねとし)だったこともあり[18]、後に「甲子園大運動場(こうしえんだいうんどうじょう、看板表記は阪神電車甲子園大運動場)」と命名。起工式は1924年3月11日に行われ、同年8月1日に竣工式が行われた。 当初は陸上競技場や球技場としても利用されることを念頭に設計されたため、グラウンドは三角形で、ポール際のコーナーが丸みを帯びるという形状で、中堅119ないし120m・両翼110mに対し左右中間が128mもあるという、現在の目から見ても過大といえるサイズとなった(1934年にはホームベースがさらに9mほど下げられており、同年の日米野球に出場するために球場を訪れたベーブ・ルースを「too large(デカすぎだ)」と驚かせている)。スタンドは「5万人収容」と公称され、内野には高さ14.3m・50段の鉄筋コンクリート製のスタンドや鉄傘が設置された(ただし現在の外野スタンド・アルプススタンドに当たる部分は、土盛りの上に20段の木造スタンドが組まれるのみにとどまった)。その他、水洗トイレ・カレーライス・コーヒーが評判となるなど、時代の先端を行く施設であった[19]。 1929年2月には開場以来土あるいはクローバーなどの草が自生していた外野に天然芝が張られ、同年5月には「甲子園南運動場」が竣工して大運動場から陸上競技場と球技場の機能が分離され、同年7月にはアルプススタンドが増設された。なお、この時期に甲子園大運動場から「甲子園球場」に名称が変更された可能性が高いが、詳細は不明である。また、周辺では、遊園地、動物園、水族館などを内包する「甲子園娯楽場(後の甲子園阪神パーク)」を始め、「甲子園庭球場」「甲子園国際庭球場」などのテニスコート、競技用プールの「甲子園水上競技場」などが設けられた。鳴尾競馬場とゴルフ場(現・鳴尾GCコース)[注 8]を含めたこの一帯は阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなった。 1931年7月にはアルプススタンドにも鉄傘が設置され、1934年3月には外野中央に2代目スコアボード(軍艦型)が設置された。同年9月に阪神一帯が室戸台風の直撃を受けた際には住民が「甲子園球場などに避難」と報道されている[21]。同年11月にはベーブ・ルースが来日。1935年12月には所有者の阪神電鉄によって「大阪野球倶楽部」が創設され、1936年1月に愛称が「大阪タイガース」に決定した(現・阪神タイガース)。同年4月からプロ野球が始まり、同年11月には外野スタンドが増築され公称収容人数は7万人となった。外野スタンド増築の際にフェアグラウンドの形状が変更され現在に近い形になったが、それでも当時の日本の野球場としては広大であり、「小柄で非力」という日本人選手の特性やボールの品質の低さなども相まって本塁打が極端に出にくいことで知られていた[注 9]。なお、フランチャイズ制度が導入される以前は「ホーム/ビジターゲーム」や「本拠地」などといった概念は希薄であり、1937年5月開場の阪急西宮球場や同年9月開場の後楽園球場とともに各球団が使用していた。 その後、太平洋戦争の激化に伴い、大日本学徒体育振興大会(通称・幻の甲子園)を最後に中等学校野球が、1945年1月の正月大会(非公式大会)を最後にプロ野球がそれぞれ中断、戦中における球場の使用を終えた。球場や周辺施設は軍が接収し、グラウンドのうち内野は芋畑、外野は軍のトラック駐車場、スタンドはバックネットから三塁内野席あたりまでは日本造機
沿革
建設の経緯
球場建設に尽力した阪神電鉄専務・三崎省三。「甲子園」の名付け親でもある[12][13]。設計主任を務めた阪神電鉄・野田誠三。当時入社2年目の技師で、野球場を見たことはなかった[14][15]。
こけら落としは阪神間学童運動会で、同年夏から優勝大会の会場となった。球場の規模に圧倒された大会関係者が「ここが満員になるのは10年はかかるのでは」と心配するほどであったが、開幕4日目で満員を記録した[20]。また、大阪毎日新聞が主催していた日本フットボール優勝大会(ラグビー、サッカーの全国大会、詳細は後述)や選抜中等学校野球大会も翌年から開催されている。
周辺の開発と戦火