甲午農民戦争
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1894年11月末に忠清道公州の牛金峙(ウグムチ、???)で農民軍は日本軍・朝鮮軍と初衝突するが、近代的な訓練を受けた日本軍に全?準等はあえなく敗北する。日本軍の圧倒的勝利で終ったこの戦闘を牛金峙の戦い[16]という。牛金峙で日本に敗北した農民軍等は全羅道に逃げた。全?準と同志達は淳昌で再起の機会をうかがっていたが、1895年初頭に捕えられ、漢城で処刑された。なお、この乱鎮圧で、川上操六参謀本部次長は「東学党に対する処置は 厳烈なるを要す、向後悉く殺戮すべし」との電文を朝鮮兵站線の日本軍司令部に送り、日本軍は3万人とも5万人ともいわれる農民を殺戮したともいわれる[17]。ある大隊長は「多く殺すの策」「探し出して殺す」作戦を展開したと講話し、日本軍のある従軍日誌には、負傷の生捕り十名を「帰舎後、生捕りは、拷問の上、焼殺せり」、捕えた7名を「城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け(略)軍曹の号令にて一斉の動作、これを突き殺せり」と書かれるなど、残虐行為があったことが窺える[18]


大院君は対立する閔氏政権によって投獄されていた東学の幹部2名を釈放し、1人を内務衙門主事に1人を議政府主事に採用し、忠清道に居る名士豪族に密使を送って、東学の扇動を命じた。また密使は、忠清道の東学幹部箕準、徐長玉に、全羅道の東学幹部全?準、宋喜玉に、それぞれ会って東徒の召集を促し、慶尚道においては直接に東徒の糾合を呼びかけた。呼びかけにより10、11月に相次いで蜂起する。そして大院君は、東学には数十万で大挙して漢城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本人を駆逐する策を実行するように指示した。これらの事実が、日本の平壌攻略によって得た多数の書類から発見された(東学党事件ニ付会審ノ顛末具報 明治28年9月20日の別紙第二号)。その後も大院君と李呵Oの扇動教唆の手紙を発見し、また後に逮捕された部下たちの供述によって発覚し、日本公使の追及によって、国王、大院君、李呵Oが謝罪して認めた(「朝鮮国王及諸大臣ニ内政改革ヲ勧告ノ件/28 1895〔明治28〕年4月8日から明治28年6月15日」p23)。これらはあくまで日本側資料であるが、このように第二次蜂起は、全くの純粋な民衆反乱ではなく、日本を清と東学の力で放逐せんとした大院君の思惑も働いている可能性がある。

一方で、本来の反乱側との和約では全羅道においては反乱側の要求を容れたはずであった[11]。しかし既に、日本の漢城における公館費用は朝鮮側負担となり日本が朝鮮に要求する改革のためにも費用がかかり、また、日清戦争は朝鮮の要請に日本が応じたという建付けであるため当面の日本軍費用は日本が負担するとしてもその他にも様々な費用を日朝どちらがどれだけ負担するのかという問題が生じ、朝鮮側は反乱側に対する約定を守ろうとしなくなっていた。また、日本軍より陸奥外相に届いた連絡では、全羅道で東学党のために朝鮮政府側の租税の徴収が出来なくなっていること、これでは結局は日本の利益を害し日本の目的を達成できなくなるとして、鎮定のために追加の兵を出すことを要請している[19]。民衆反乱は、日清戦争の戦費調達のための重税が朝鮮民衆に新たな負担としてのしかかり、その必然的結果であった可能性もある。
戦後

1906年全羅南道珍島郡で処刑された無名の反乱指導者とみられる遺骨が北海道帝国大学に搬出。「韓国東学党の頭領」と記された頭骨は、長らく大学で保存されていた後、返還運動を通じて1995年に韓国に戻り全州歴史博物館に収蔵された。2019年時点では、東学革命記念緑豆館の敷地内に埋葬する計画が立てられている[20]
世界の記憶

東学農民革命のアーカイブは2023年に世界の記憶に登録された[21]
脚注[脚注の使い方]^ a b 糟谷憲一 著「朝鮮近代社会の形成と展開」p.223-227、武田幸男編集 編『朝鮮史』山川出版社〈世界各国史2〉、2000年8月。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISBN 4-634-41320-5
^ a b c d 『台湾の歴史:日本統治時代の台湾:一八九五-一九四五/四六年:五十年の軌跡』末光欣也、致良出版, 2007/11/01、p668-9
^ a b “【コラム】東学が抗日闘争だって?=韓国(1)”. 中央日報 - 韓国の最新ニュースを日本語でサービスします. 2023年10月4日閲覧。
^ “歴史は生きている 日清戦争は景福宮で始まった”. 朝日新聞DIGITAL. 朝日新聞社. 2023年12月16日閲覧。
^ “韓国高校歴史教科書における東学農民運動の叙述の変遷”. 立命館学術成果リポジトリ. 立命館大学. 2023年12月16日閲覧。
^ “ ⇒百周年をむかえた甲午農民戦争”. 大阪産業大学. 2023年12月16日閲覧。
^ “日本近代と韓国の関係 ―東学思想,甲午農民戦争,日清戦争を中心に一”. 北海道大学. p. 30. 2023年12月19日閲覧。
^ 朴孟洙. “近代 日本 と韓国(北朝鮮)に おける東学思想及び甲午農民戦争に関する先行研究の到達点 と問題点”. 国際日本文化研究センター. 2023年12月19日閲覧。
^ 朴垠鳳『わかりやすい朝鮮社会の歴史』
^ 支那近代百年史 上巻 佐野袈裟美 1939年
^ a b 『新版 世界各国史2 朝鮮史』山川出版社、2000年、242頁頁。ISBN 978-4634413207。 
^ 陸奥宗光 『新訂 蹇蹇録 日清戦争外交秘録』中塚明校注、岩波書店〈新訂ワイド版岩波文庫255〉、1994年。
^ 佐々木隆『明治人の力量』講談社〈講談社学術文庫1921:日本の歴史21〉、2010年
^ 岡本隆司『世界のなかの日清韓関係史 交隣と属国、自主と独立』講談社〈講談社選書メチエ〉、2008年。152頁。
^ a b “描かれた日清戦争 ?錦絵・年画と公文書? 。日清戦争とは”. アジア歴史資料センター. 2023年12月18日閲覧。
^ 日名子健二,2022, ⇒「日清戦争下における公州牛禁峙の戦い-李氏朝鮮政府軍と東学農民軍の戦い-」 (PDF) ,福岡市総合図書館 2022年度利用者研究成果
^ 信長 正義. “南小四郎の日本軍後備歩兵第 19 大隊と東学農民軍殲滅”. 神戸学生青年センター. 2023年12月19日閲覧。
^ 井上 勝生 (2018-3-30). “東学農民戦争, 抗日蜂起と殲滅作戦の史実を探究して --韓国中央山岳地帯を中心に--”. 人文學報 (京都大學人文科學研究所). 
^ “慶尚道に東学党蜂起せり 林外務次官”. アジア歴史資料センター. 2023年12月19日閲覧。
^ “ ⇒東学農民革命軍指導者の遺骨をめぐる訴訟の理由とは?”. ハンギョレ (2019年5月24日). 2019年5月24日閲覧。
^ “UNESCO Memory of the World Register”. UNESCO. 2023年5月27日閲覧。

参考文献

「朝鮮史 新書東洋史10」梶村秀樹著、講談社現代新書

「教養人の日本史(4) 江戸末期から明治時代まで」池田敬正、佐々木隆爾著、社会思想社 教養文庫

「クロニック世界全史」講談社

「ジャパン・クロニック 日本全史」講談社

「朝鮮 地域からの世界史1」武田幸男・宮嶋博史・馬渕貞利著、朝日新聞社

「錦絵の中の朝鮮と中国」岩波書店

「日本近現代史3 日清・日露戦争」岩波書店

中塚明、井上勝生、牧孟洙『東学農民戦争と日本』高文研、2013年
ISBN 978-4-87498-516-8

関連項目

李氏朝鮮

東学/西学(キリスト教)

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