田沼意次
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^ 同時に藤田覚は「たしかに、個々の冥加金を見ると幕府財政を潤すほどの額とは言えないかもしれない。しかし、少額とはいえ少しづつでも増額させようとしており、そこには明らかに財政収支を増加させようとする意図がみえる」とも書き、財政収入増加説と流通統制説の双方に理解を示している。
^ 赤ん坊が手を握る動作と役人が賄賂を受け取ることをかけて皮肉っている。
^ 「猪牙」とは吉原への専用船のこと。固い役人でも吉原で接待すれば骨抜きになる。
^ 大石は辻が意次の汚職の根拠として民衆の噂話程度のものすら挙げ、田沼の汚職政治家としてのイメージを確立させたと批判しているが、田沼時代や田沼意次が汚職政治のイメージで語られたのは辻が始まりではない。上述のように三上の論考や徳富による通史があったり、辻自身が引用している通り、シーメンス事件に関わる貴族院議員の発言がある[16]。辻の論考は佐々木の指摘のように、その意図に反して意次=汚職政治家と学術的に、あるいは中高の教育に引用された経緯がある[17]。また辻の論旨は、民権発達の潮流として当時の民衆が時代や意次をどう認識していたかという部分にある[18]。藤田覚は、大石が主張するように意次に関する悪評はその多くが老中辞任後に書かれたものであることは認めているものの、老中辞任前に書かれた悪評も皆無ではなく、そもそもたとえ風聞や落書、老中辞任後のものであっても、それを全て信憑性がないと一まとめに一蹴するのは乱暴であり、史料の吟味が必要であると語っている[19]
^ 当時、田沼の賄賂政治を批判した松平定信が行った寛政の改革の諸役人への贈り物を規制する触書では、あまりに高価な品を贈ることを戒めてはいるが、新年、中元、歳暮などの儀礼的な年中恒例の贈答などを禁止などしているわけではなく、むしろ1年に何度にも及ぶ恒例の進物は当然のこととされた。それどころか、幕府役人への進物は大名らへの当然の義務であった。寛政4年(1792年)の触書では「近年、年中恒例の進物の数を減らしたり、質を落としたり、なかには贈らない者もいる」と非難している。さらに、側衆や表向き役人への進物は、大名と役人の私的な贈答ではなく、将軍の政務を担う役人への公的な性格のものだからきちんと贈るようにとも命じている[20]
^ むろん賄賂をやり取りすることが珍しいことでなかったからといって賄賂を贈ることが社会倫理的に認められていたという拡大解釈にはならない。武士間の進物は社会儀礼であったとはいえ、賄賂を禁止したい幕府は進物の金額の上限を規定していたし、幕府は武家の法律である武家諸法度において賄賂を規制する条文を足すなど対策を講じていた[20]。また、幕府は業者と幕府役人とのあいだの贈収賄を禁止する触書を何度も出しており、御用商人や職人に対し幕府役人に贈物をしてはならないと規定があるのに、それでも贈っているのは不届きだと叱り、進物を贈る者は処罰するとも命じている[20][24]
^ 領内で起こった大火後、藁葺きの家をことごとく瓦葺にするよう令を発した。

出典^ 藤田 2007, pp. 4?6.
^ 藤野保『江戸幕府崩壊論』塙書房、2008年。[要ページ番号]
^ 藤田 2007, pp. 253?254.
^ 高澤憲治『松平定信』吉川弘文館〈人物叢書〉、2012年。 
^ a b 深谷克己『田沼意次―「商業革命」と江戸城政治家』2010年、山川出版社[要ページ番号]
^ a b c d e f g 藤田覚『勘定奉行の江戸時代』〈ちくま新書〉2018年。 
^ a b c d e f 藤田覚『田沼時代』吉川弘文館〈日本近世の歴史4〉、2012年5月1日。 
^ 高木久史『通貨の日本史―無文銀銭、富本銭から電子マネーまで―』(中公新書、2016年)
^ 徳川林政史研究所 (監修) 編『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日、19頁。 
^ 高木久史『通貨の日本史―無文銀銭、富本銭から電子マネーまで―』(中公新書、2016年)
^ a b c 藤田 2007, pp. 128?139.
^ 藤田 2007, pp. 148?155.
^ 徳川林政史研究所 (監修) 編『江戸時代の古文書を読む―田沼時代』東京堂出版、2005年6月1日、17-18頁。 
^ a b 大石慎三郎 1977, pp. 203?208, 「誤られた田沼像」.

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