田沼意次
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吉宗時代の質素倹約は、幕府の財政支出の減少のみならず、課税対象である農民にも倹約を強制し、それによって幕府財政は大幅な改善を見たが、この増税路線は9代将軍家重の代には百姓一揆の増発となって現れ、破綻した。そして、幕府領における一揆ではないものの、意次は郡上一揆の裁定を任されたことから、農民に対する増税路線の問題を目の当たりにする立場であった。

宝暦期に起こった郡上一揆などの民衆の反発の激化と天災地災の多発から、幕府幕閣は米以外の税収入を推し進める。内容は株仲間の推奨、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売、下総国印旛沼手賀沼の干拓に着手するなど、田沼時代の財政政策は元禄時代のような貨幣改鋳に頼らない、さまざまな商品生産や流通に広く薄く課税し、金融からも利益を引き出すなどといった大胆な財政政策を試みた。浅間山天明大噴火

しかし、田沼時代の政策は幕府の利益や都合を優先させる政策であり、諸大名や庶民の反発を浴びた。また、幕府役人の間で賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士本来の士風を退廃させたとする批判が起こった。都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。大規模な開発策や大胆な金融政策など、開明的で革新的な経済政策と呼ばれる意次の政策は、いわば大山師的な政策だった。この時代、利益追求の場を求め民間から様々な献策が盛んに行われ、民間の利益追求と幕府の御益追求政治とが結びつき、かなり大胆な発想と構想の政策が立案・執行された。だが、その収入増加策の立案、運用は実のところ場当たり的なものも多く、利益よりも弊害の方が目立つようになって撤回に追い込まれるケースも多発していた。そして幕府に運上金冥加金の上納を餌に自らの利益をもくろんで献策を行う町人が増え、結果的に幕府も庶民も得にならなかった政策を採用することもあった。そのような町人の献策を幕府内での出世を目当てに採用していく幕府役人が現れ、町人と幕府役人との癒着も目立つようになった。同時に田沼時代の代名詞である賄賂の横行や幕府と諸藩との利益の衝突、負担を押し付けられた民衆との間に深刻な矛盾も生じさせた[3]。このような風潮は「山師、運上」という言葉で語られた。しだいに利益追求型で場当たり的な面が多く、腐敗も目立つ田沼意次の政策に対する批判が強まっていく。天明4年(1784年)、意次の世子のまま若年寄を勤めていた田沼意知江戸城内で佐野政言に暗殺された[注 1]ことを契機とし、権勢が衰え始める。

天明6年(1786年8月25日、将軍家治が死去した。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家徳川治済)の策謀があったともされる。意次は8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格した。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。

その後、意次は蟄居を命じられ、2度目の減封を受ける。相良城は打ち壊され、城内に備蓄されていた8万のうちの1万3千味噌を備蓄用との名目で没収された[4]。長男の意知はすでに暗殺され、他の3人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助陸奥下村1万石に減転封のうえで、辛うじて大名としての家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保間部詮房が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった[注 2]

その2年後にあたる天明8年(1788年6月24日、意次は江戸で死去した。享年70。
相良藩の藩政

田沼意次は御側御用取次であった宝暦8年(1758年)に、第9代将軍家重から呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良1万石の大名となった。この時の相良は郡上一揆で改易となった本多忠央が前領主であったが、城はなく陣屋のみあった。明和4年(1767年)には第10代将軍家治より神田橋御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、さらに築城を許可されて城主格となった。翌年から相良城の建設を始め、完成までに11年間の月日を要した。意次は普請工事を家老の井上伊織に全て委ね、1780年安永9年)の完成に合わせて62歳になった意次は検分の名目でお国入りを果たした。特に天守を築くことを許されており、縄張りを北条流軍学者の須藤治郎兵衛に任せ、三重櫓の天守閣を築いた。出世を重ねた意次の所領は、最終的に5万7千石にまで加増された[5]

意次は江戸定府で幕政の執務に勤めていたため、国元の藩政については町方と村方の統治を明確化し、城代国家老などの藩政担当家臣を国元に配置した。上記の築城の他、城下町の改造、後に田沼街道(相良街道)と呼ばれる東海道藤枝宿から相良に至る分岐路の街道整備、相良港の整備、助成金を出して瓦焼きを奨励して火事対策とするなどのインフラに力を注いだ。意次は郡上一揆の調査と裁定を行った経歴から、年貢増徴政策だけでは経済が行き詰まることを知っていたので、家訓で年貢増徴を戒めており、領内の年貢が軽いことから百姓が喜んだ逸話が残された。殖産興業政策にも取り組み、農業では養蚕や櫨栽培の奨励、製塩業の助成、食糧の備蓄制度も整備して藩政を安定させた[5]
財政赤字が続き倹約増税に走る田沼時代

田沼意次の財政政策は、世間の通説では積極財政だと言われるが、実際の政策は享保の改革の緊縮路線を引き継ぎ、緊縮増税を行っていた[6]

財政赤字が頻発したため、田沼時代はひたすらに幕益を追求していった時代だった。天明7年(1787年)に老中となった松平定信に提出された植崎九八郎上書の中で、田沼時代の諸役人は次のように批判されている。諸役人は、幕府の支出を一銭でも減らすことを第一の勤めとして互いに競い合い、幕府の利益だととなえて、重い租税を取り立てることを将軍への奉公と考え、おのおのの持ち場で、一方で費用を切りつめて支出を減らし、他方で租税の取り立てを厳しくし、その手柄により転任し出世していった[6]

このような幕益優先の緊縮増税が田沼時代に行われた理由は、当時相次いだ天災・飢饉によって引き起こされた幕府財政の悪化だった。

田沼時代は最初期から天災や飢餓が続出し、宝暦明和期は大旱魃や洪水など天災が多発し、江戸では明和の大火にて死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。その後も天災地変は続き、天災・疫病、三原山桜島浅間山の大噴火、そして天明の大飢饉が起こった。そのため全国で一揆打ちこわしが各地で激発した。通算で数えると、田沼時代の宝暦から天明期の38年の間に発生した一揆の数は600件近くあり、都市騒擾も150件以上にのぼる。

明和9年(1772年)、変事が続いたため年号を安永に変更し、安寧を願った。当時の落首でも「明和九も昨日を限り今日よりは 壽命久しき安永の年」と書かれている。明和年間の1764年から1772年の8年の期間は、うち6年が米・金ともに赤字を記録し、赤字のない年は明和8年(1771年)以外ないという、赤字が多い時期であった[7]。その明和8年は、不作を理由に7年間の倹約令と経費削減、拝借金の制限を命じた年だった。さらには禁裏財政にまでメスを入れ、支出削減に力をいれた。そのかいあって、安永年間は明和年間にくらべて小康状態に落ち着いた。安永元年(1772年)から6年(1777年)までは、米収支こそ毎年赤字だったが、金収支はなんとか黒字を維持し続けた。しかし、次の天明年間に天明の大飢饉がおこり、膨大な赤字が連続することとなる。最終的な幕府備蓄の推移を見てみると、明和の時期の幕府の備蓄金は300万両あったが、田沼時代の終わりには81万両までに急減するという結果に終わった[6]

田沼時代とは、家重の代までに貯えた備蓄を食いつぶして、天災地災が多発する危機を乗り切った時代だったといえる。田沼時代の各種政策は、それらの幕府財政状況を踏まえて考えることが重要である[6]
政策
諸経費削減

田沼は吉宗時代に倣った経費削減を行った。大奥を縮小し、将軍の私生活を賄う御納戸金の額を1750年に2万4600両だったものから1771年には1万5000両に削減した。1746年に幕府諸役所経費の2年間節減を命じ、1755年に役所別定額予算制度を採用、1764年には役所で使う筆墨、灯油などの現物支給を停止し、役所経費での購入に変更するなど、経費削減に取り組んだ[6]
御手伝普請

さらに1757年、田沼は吉宗時代に停止されていた国役普請を再開した。幕府普請よりも国役普請の方が、私領での公儀普請時の領主負担分の立替金をきちんと徴収すれば、幕府負担は工事費の10分の1の負担で済んだからである。


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