1937年、日本大学専門部芸術科演劇科に入学[7]。同年に芸術小劇場の創立に参加[7]。1941年に大学を中退する。1946年、劇団俳優座に入団し、翌年『女優須磨子の恋』(松竹・溝口健二監督)で映画デビュー[7]。1954年、俳優座を退座し、映画製作を再開した日活に入るが、1956年に退社[7]。1957年からは東宝と専属契約を結び、『ふんどし医者』(1960年)、『どぶろくの辰』(1962年)などで渋い演技を見せ、いぶし銀の名バイプレイヤーとして活躍した。東宝を退社後は、金子信雄が主宰する演劇グループ「演劇人クラブ・マールイ」に参加、舞台に出演するほか、後進の育成・指導にもあたった。
特撮作品への出演も数多く[2][3]、東宝では本多猪四郎監督の本多組の常連であり、監督が自宅で主宰する恒例のパーティーでも常連メンバーだった。円谷プロダクションのウルトラシリーズの原点である『ウルトラQ』には準レギュラーで登場。東宝を退社後は東映など他社作品にも活躍の場を広げ、ヤクザ映画などで味のある個性を発揮した。時代劇の悪家老・悪徳商人役でもお馴染みであった。
1984年公開の『ゴジラ』では十数年ぶりのゴジラ映画出演を果たした。田島自身も、久しぶりの特撮映画の出演を喜んでいたという。
役柄については、その場で完全燃焼するタイプだったようで、1980年代に『ウルトラQ』の役柄についてインタビューされた際には、「出演していたことも憶えていない」と答えている。
2009年9月10日、食道癌で死去。91歳没。
出演作品
映画
愛と憎しみの彼方へ(1951年、東宝) - 近藤
続赤穂城(1952年、東映)
早稲田大学(1953年、東映) - 刑事
広場の孤独(1953年、東映) - 立川
プーサン(1953年、東宝) - 党員
悲劇の将軍 山下泰文(1953年、東映) - 鉄兵団の連絡准尉
ウッカリ夫人とチャッカリ夫人 やりくり算段の巻(1954年、東宝) - 窓野君
学生心中(1954年、日活) - 大磯
沓掛時次郎(1954年、日活) - 八卦見
黒い潮(1954年、日活) - 斎藤記者
俺の拳銃は素早い(1954年、日活) - 松葉杖の男
勲章(1954年、俳優座)
天下泰平(1955年、東宝) - 山村耕吉
生きとし生けるもの(1955年、日活) - 同僚田辺
愛のお荷物(1955年、日活) - 荒巻章吾
狼(1955年、近代映画協会)
少年死刑囚(1955年、日活) - 保安課長
続宮本武蔵 一乗寺の決闘(1955年、東宝) - 太田黒兵助
大地の侍(1956年、東映) - 大沼喜三郎
夜間中学(1956年、大映) - チョビひげの客
殉愛(1956年、東宝) - 分隊長
空の大怪獣 ラドン(1956年、東宝) - 井関[8][3]
この二人に幸あれ(1957年、東宝) - 中島
柳生武芸帳(1957年、東宝) - 宝屋典膳
続大番 風雲篇(1957年、東宝) - 株屋山加
青い山脈 新子の巻・雪子の巻(1957年、東宝) - 田中先生
隠し砦の三悪人(1958年、東宝) - 男
変身人間シリーズ(東宝)
美女と液体人間(1958年) - 坂田刑事[8][3]
電送人間(1960年) - 隆昌元[8][3]
ガス人間第一号(1960年) - 田端警部[8][3]
大怪獣バラン(1958年、東宝) - 艦長[8]
コタンの口笛(1959年、東宝) - ワカルパ
或る剣豪の生涯(1959年、東宝) - 小林左膳
ある日わたしは(1959年、東宝) - 北村
上役・下役・ご同役(1959年、東宝) - 佐竹省吾
戦国群盗伝(1959年、東宝)
日本誕生(1959年、東宝) - 高天原の神[9]
女が階段を上る時(1960年、東宝) - 風間重役
サラリーマン目白三平シリーズ(東宝) - 柴田
サラリーマン目白三平 女房の顔の巻(1960年)
サラリーマン目白三平 亭主のためいきの巻(1960年)
ふんどし医者(1960年、東宝) - 清兵衛
悪い奴ほどよく眠る(1960年、東宝) - 新聞記者
愚連隊シリーズ(東宝)
独立愚連隊西へ(1960年) - 新田参謀
やま猫作戦(1962年) - 浅野伍長
花のセールスマン 背広三四郎(1960年、東宝) - 篠原
ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐(1960年、東宝) - 副長[8]
野盗風の中を走る(1961年、東宝) - 案山子の孫市
黒い画集 第二話 寒流(1961年、東宝) - 久保田謙治
モスラ(1961年、東宝) - 防衛軍指揮官[10]
紅の海(1961年、東宝) - 村井六之助
どぶろくの辰(1962年、東宝)
箱根山 (1962年、東宝)
忠臣蔵 花の巻・雪の巻(1962年、東宝) - 脇坂主膳
紅の空(1962年、東宝) - 警視庁係長
ゴジラシリーズ(東宝)
キングコング対ゴジラ(1962年) - 第二新盛丸船長[8]