1968年(昭和43年)1月11日には吉本興業の林正之助社長と共に、「レコード会社乗っ取り容疑」で兵庫県警に逮捕されている(不起訴)。
組員に対しては合法的な収入源を持つように勧めた。それまでのヤクザ組織には無かった合法事業を持つ舎弟と若衆には、非合法な事業を扱わせずに、組織の分業化を進め、結果として組の運営を合法事業と非合法事業に分けることにより、安定した資金源と、非合法な力を持つことになった。本人も「これからのやくざは経済新聞を読まなきゃあかん」「株の動向に注意するぐらいでないとあかんぞ」「正業へつけ正業へ」というのが口癖であったという。
1950年代から60年代にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で抗争事件を引き起こした。
1963年(昭和38年)には田中清玄や菅原通済と連携した麻薬追放国土浄化同盟を結成し、市川房枝らとともに麻薬撲滅運動を展開しているが、横浜に支部(益田組)を出した時には地元勢力とトラブルとなった[注釈 5]。
山口組を全国規模の組織に育て、警察庁から広域暴力団[注釈 6]の指定を受けた。 1964年(昭和39年)の山口組を壊滅する為の「第一次頂上作戦」においては、資金源の要であった神戸港の港湾事業に司直のメスが入り、傘下の甲陽運輸が業務監査を受け、山口組は港湾業務から撤退した。 1966年(昭和41年)12月28日、自らが経営する甲陽運輸の脱税容疑で神戸地検に起訴される。 1968年(昭和43年)12月、職業安定法違反で神戸地検に起訴される。 1969年(昭和44年)4月25日、恐喝と威力業務妨害で神戸地検に起訴される。 若頭・地道行雄(地道組組長)が山口組解散へと動くが、幹部会で山本健一(山健組組長)、菅谷政雄(菅谷組組長)、梶原清晴(梶原組組長)、山本広(山広組組長)ら若頭補佐が反対。この結果、地道は失脚し、山本健一の力が増した。1965年(昭和40年)には、田岡が心筋梗塞で病床にあった事もあり、集団指導体制へ移行した。 自伝(昭和49年発行の初版)によると、神戸水上消防署の一日署長をした経験を持つ[注釈 7][4][5]。 「第一次頂上作戦」後も勢力の拡張を続けるが、1978年(昭和53年) 7月11日には京都のクラブ「ベラミ」で7月23日傘下の佐々木組
第一次頂上作戦以降
これにより「第3次大阪戦争」と呼ばれる大規模な拳銃乱射事件が始まり、同年11月に山口組が終結の記者会見を開くまで続いた。田岡は関西労災病院にて治療後、料亭にベラミ関係者を呼んで謝罪した。
1981年(昭和56年)7月23日、急性心不全により68歳で死去。戒名は永照院仁徳一道義範大居士。若頭の山本健一が跡目に決まっていたが、翌1982年(昭和57年)病死。跡目相続には長い年月と争いが起こることになった(山口組四代目跡目問題)。また、四代目の跡目争いには妻で未亡人であった文子の意向が強く働いている。
山口組はハロウィンで近隣の子供たちにお菓子を配っているが、これは田岡が始めたものである。1970年代は、日本ではハロウィンはまだ知られていなかったが、山口組総本部は高級住宅街に近く、外国の領事館員や駐在員の住民の子供たちが、そうと知らずに山口組にもハロウィンで訪ねて来た。最初は小遣いをやって帰らせていたが、田岡がハロウィンについて調べさせ、以降はお菓子を用意するようになったという[9]。
2013年(平成25年)7月23日、神戸市灘区の自宅において三十三回忌法要が弔い上げとして執り行われる。施主は長女田岡由伎、司会は長沢純。 1957年4月に芸能プロダクション神戸芸能社の看板を掲げ[2]、芸能プロモーターとしても活動[2]。特に国民的歌手である美空ひばりの後見人となり、ひばりプロダクション副社長になって美空ひばりの興行権を握ったことで、京都以西では「田岡なしでは興行ができない」とまで言われる実力者に若くして台頭した[2]。美空ひばりが東映と映画出演の専属契約を結んだ関係から、後に映画界のドンと謳われた岡田茂とは、阿吽の呼吸で知られ[2][10][11]、岡田の指揮する「東映任侠映画」や「実録ヤクザ映画」に協力し、高倉健や菅原文太、勝新太郎など数多くの俳優とも親交を持った[2][11]。
芸能プロモーターとして