田堵
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「田堵」の初見は永延2年(988年)の「尾張国郡司百姓等解」である[2]

田堵には、古来の郡司一族に出自する在地豪族や、土着国司などの退官した律令官人を出自とする者もいて、蓄積した富をもって、墾田開発・田地経営などの営田活動を進めたり、他の百姓への私出挙を行った。また在地豪族は律令制下でも一定の武力を保有していた。

そして、まず国衙領において、公田から名田への再編成が行われると、田堵が名田経営を請け負う主体に位置づけられるようになる。さらに、荘園にも名田化が波及すると、荘園内の名田経営も田堵が請け負うようになった。こうして田堵は、荘園・公領経営に深く携わるようになっていき、荘官名主の地位を得るのである。田堵は、荘園公領制の成立に非常に大きな役割を果たしたといえる。

11世紀に成立した『新猿楽記』という世相を映し出した書物には、「出羽権介の田中豊益は、農業経営を専門とし、数町の田地を経営する大名田堵である。ひでりに備えて、農具や用水の整備にいそしんで農民の育成にあたり、種播期には農民の作業をうまく指揮する。」という内容の記載があり、田堵の実情をよく知ることができる。
脚注^ 保立道久『中世の国土高権と天皇・武家』第1章 平安時代の国家と荘園制 (校倉書房、2015年)
^ 木村茂光「田堵の経営」(初出:歴史科学協議会 編『歴史が動く時 人間とその時代』(青木書店、2001年) ISBN 978-4-250-20137-0/改題所収:「田堵の性格と経営」木村『日本初期中世社会の研究』(校倉書房、2006年) ISBN 978-4-7517-3740-8 T-第二章

関連項目

荘園

名田

百姓

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