田中角栄
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大正生まれ初の内閣総理大臣であり、在任中には日中国交正常化日中記者交換協定金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応した。政権争奪時に掲げた日本列島改造論による日本列島改造ブームは一世を風靡したが、その政策はインフレーションを招いてこれを狂乱物価と批判していた政敵の福田赳夫を蔵相に抜擢して日本は安定成長期に入った。その後の田中金脈問題によって首相を辞職、さらにアメリカ合衆国航空機製造大手ロッキード社の全日本空輸への航空機売込みに絡んだ贈収賄事件、いわゆる「ロッキード事件」で逮捕・収監され、自民党を離党した。

首相退任後やロッキード事件による逮捕後も田中派を通じて政界に隠然たる影響力を保ち続けたキングメーカーだったことから、マスコミからは「(目白の)闇将軍」の異名を取った。1972年(昭和47年)に総理大臣になると、高等教育を受けていないにもかかわらず[注釈 2]努力一筋で首相にまで上り詰めた経歴から「今太閤」、「庶民宰相」、「豊臣秀吉」とも呼ばれた。また、天下人の太閤秀吉になぞらえ子飼いの武将の「七本槍」を彷彿とさせることから、中堅幹部は「七奉行」とマスコミに表現された。

道路法の全面改正や、道路港湾空港などの整備を行う各々の特別会計法など、衆議院議員として33件の議員立法を成立させ[4]、戦後の日本の社会基盤整備に正負両面にわたる大きな影響を与えた。また、社会基盤整備を直接担当する建設省運輸省、大臣として着任していた通商産業省郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。

1972年8月7日の駐日アメリカ大使から本国への機密の報告書には「田中の粘り強さと決断力の源は、自らの力でのし上がってきた、その経歴にあると思われる。彼の大胆さと手段を問わないやり方は終戦直後の混乱からトップに登り詰めたことを反映している」とある。通産大臣時代に担当した戦後初の日米貿易摩擦とされる日米繊維交渉ではアメリカに対して粘り強く交渉し、貿易戦争の瀬戸際になるまで妥協しなかったこともあった[5]
生涯
生誕

1918年5月4日新潟県刈羽郡二田村大字坂田(後の同郡西山町、現:柏崎市)に父・田中角次(1886?1964)、母・フメ(1891?1978)の二男として生まれる。ただし長兄は早逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった[6]。田中家は農家だが父は牛馬商、祖父・田中捨吉(田中角右衞門の子)は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという[7]。幼少年時代に父がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し、家産が傾き、極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ、ジフテリアに罹患した後遺症で吃音症を患い[8][注釈 3]浪花節を練習して矯正した。

1933年昭和8年)、二田尋常高等小学校[9](現:柏崎市立二田小学校)卒業。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学に優れ、ずっと級長をしていたという[10]。高等小学校の卒業式では答辞を読んだ[11]

なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒(1936年卒[12])と公称することが多かった[13]。後に中央工学校の五代目校長に就任している[14]。しかし、現在の中央工学校は専門学校として東京都から認可を受けているが[13]、専門学校を含める「専修学校」という学校制度は1976年(昭和51年)に創設されたため[15]、彼が在学当時の中央工学校は学校制度上の学校ではなかった。

二田尋常高等小学校(現:柏崎市立二田小学校)卒業後、田中は土木工事の現場で働くが一ヶ月で辞め、その後、柏崎の県土木派遣所に勤めた[16]旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という[17]
上京

1934年(昭和9年)3月、農村工業論を唱えて新潟県柏崎に工場建設していた理化学研究所大河内正敏が「(自身を)書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する[18][19]。だが東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた群馬に本社がある土建会社井上工業の東京支店に住み込みで働きながら、東京神田の中央工学校夜間部土木科に通った[20][19]


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