田中は10代の頃、以前から恋愛関係にあった清水宏監督から求婚された。しかし母・ヤスの反対に遭ったことから、城戸四郎の提案で1927年に「試験結婚」(今で言う同棲生活)という形で“結婚”した。しかし、その後の2人の生活は“夫婦”ゲンカが絶えず、1929年に関係を解消した[1][2]。
溝口監督の作品に合計15作品出演し、2人は公私に渡る親交を結んでいる。溝口は撮影に入れば容赦なく自分の望む演技を徹底的に要求し、田中もそれに必死で応えた[2]。ある時から溝口は田中に惚れていて結婚を願望していたが、田中側は彼に魅力を感じておらず、新藤兼人や田中の証言によると溝口の片思いだったと言われる[37]。また、映画評論家の西村雄一郎[注釈 20]も、「田中は生前、溝口について『演出家としての溝口先生を尊敬しております』と言うだけだった。結局溝口の片思いに終わったようです」としている。ちなみにこの頃の田中と溝口の公私におけるやり取りは、その後先述の吉永小百合の主演映画『映画女優』で、菅原文太と共に演じられた[2]。
このほか、慶應義塾大学野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。しかし結局、田中は清水監督との短い「試験結婚」を除き、その後は独身を貫いた。 1936年、神奈川県鎌倉市の鎌倉山に3棟合わせて25部屋もある豪邸を建築し、マスコミなどから「絹代御殿」と称された[2]。当時の鎌倉山は高級住宅地で、田中のこの自宅の西隣りには近衛文麿の別邸、東隣りには藤原義江邸があった。1949年に岩田宙造の別宅(山椒洞)を購入して移り住むが、1954年には、帝国ホテルを居所とし[38]、「絹代御殿」を売却した[27]。ちなみに1950年1月に大バッシングに遭った時は、マスコミを逃れて心身を癒すため数ヶ月間をここで静かに過ごしたという[2]。その後1965年に鎌倉山に自宅を新築した[20]。
鎌倉の自宅など