田中絹代
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上記の田中が肺炎で療養生活をしていた頃に、華厳滝で投身自殺を図った次兄が肺炎で死亡[26]。加えて天王寺尋常小学校に編入後の授業中、田中が琵琶の教本を読んでいたのを女教師に見つかり罰で校庭に立たされ、級友に笑われた恥ずかしさと口惜しさから学校をやめてしまう[4]。その後「琵琶少女歌劇」時代を経て女優の道を歩むこととなる。ちなみに母・ヤスはその後1937年に死去し、下関に墓を建立した[27]
渡米と帰国後の大バッシング

1949年10月21日から日米親善使節として渡米し、約3ヶ月間の滞在中にハワイやハリウッドを巡り50回以上の公演[注釈 16]をこなした。ハワイでは各地で歓迎のレイを首にかけられ、戦時下で差別された日系人からもひときわ大きな熱烈歓迎を受けたという[2]ハリウッドでは映画スタジオなどを見学してベティ・デイヴィスシルヴィア・シドニーらと会い、ジョーン・クロフォードの撮影などを見学したり、当時の先端的なメイク法も教わった[注釈 17]

翌1950年(昭和25年)1月19日に帰国した[28]。出発時は豪華な古代ものを使った小袖姿[29] だったが、帰国時は茶と白のアフタヌーンドレスと毛皮のハーフコート、緑のサングラスハワイ土産のレイをまとって登場。報道陣らには「ハロー」と一声発し、銀座のパレードで投げキッスを連発[12][30]。この姿と行為で渡米を後援した毎日新聞社を除くメディアから「アメリカかぶれ」と叩かれ、一部のメディアからは「アメション女優」[注釈 18]などと形容された。

一方田中のファンたちも「アメリカに毒された」と猛反発し[2]、「銃後を守る気丈な日本女性」[31] のイメージを確立していた国民的女優の突然の変身に、敗戦に打ちひしがれ貧困の状態にあった国民は戸惑い、同時に憤りをかきたてることになり、田中はそれ以降自殺を考えるほどのスランプに陥った[28][32]。さらに1951年(昭和26年)には、映画雑誌『近代映画』のスター人気投票の女優部門で10位以内にも入らずトップスターの地位を失った[32]。当時田中は、知人に「ファンレターが1通も来なくなった」と漏らしていたという[33]
仕事に対する姿勢や周りからの評価

作品に情熱を込めて役作りをしてセリフも徹底的に暗記し、死後遺品となった台本には田中により細かく色々と書き込みがされていたという。先述の『私の履歴書』で田中は、「私は役をやる上で、監督から“痩せろ”と言われれば痩せ、“太れ”と言われれば太ることができます」と語っていたという。田中は、黒澤・小津・溝口・成瀬という4大映画監督がこぞって起用した数少ない女優の1人である[2]。他にも五所平之助、清水宏、木下惠介ら大物監督に重用された。

著作『輝け!キネマ 巨匠と名優はかくして燃えた』で田中絹代の新解釈を試みた映画評論家の西村雄一郎は、「シナリオに書いてある役柄を、その根本まで理解しひたむきに演じた。さらに熟考して新たな意見を出すため、巨匠たちにとって想像以上の効果を出してくれる得難い女優だったのです」と解説している[2]

30年間に渡り田中の研究を続ける、「田中絹代メモリアル協会」の現在(2021年)の事務局長は、「田中は身長が150cmしかなく、絶世の美女でもありません。しかし、必死に役を学び、誰にもまねできない和服の裾さばきと手さばきを身につけました。また、男性のように振る舞うのではなく、男性を尊重しながら女性の良さを表現することを実践した、昭和を代表する女優でした」と評している[2]
監督デビュー

1953年に監督業を始めるにあたり相談相手の成瀬巳喜男監督に弟子入りし、成瀬の『あにいもうと』に監督見習いとして加わった。成瀬監督自身から手ほどきを受けたが、その際「今までのスター意識を捨てろ。マイカーで来るな。撮影の30分前に準備しろ。撮影中は座るな」などと厳命され、撮影期間の約50日間耐えた[2]。そして同年12月に初監督作品の『恋文』を公開、日本で二人目の女性監督の誕生となった[注釈 19]

1954年7月に監督2作目の『月は上りぬ』の製作を小津安二郎から推薦される。しかし、五社協定に加盟していない日活での製作のため、日本映画監督協会理事長である溝口に反対される。田中は小津の協力で映画を完成させたが、これが原因で溝口との関係を疎遠なものにしてしまう[34]。女優としては一流であった一方で、映画監督としては同様にはいかず、演出が上手く出来ず、撮影が大幅に遅れることもあったと言う[35][36]
恋愛関係など

田中は10代の頃、以前から恋愛関係にあった清水宏監督から求婚された。しかし母・ヤスの反対に遭ったことから、城戸四郎の提案で1927年に「試験結婚」(今で言う同棲生活)という形で“結婚”した。しかし、その後の2人の生活は“夫婦”ゲンカが絶えず、1929年に関係を解消した[1][2]

溝口監督の作品に合計15作品出演し、2人は公私に渡る親交を結んでいる。溝口は撮影に入れば容赦なく自分の望む演技を徹底的に要求し、田中もそれに必死で応えた[2]。ある時から溝口は田中に惚れていて結婚を願望していたが、田中側は彼に魅力を感じておらず、新藤兼人や田中の証言によると溝口の片思いだったと言われる[37]。また、映画評論家の西村雄一郎[注釈 20]も、「田中は生前、溝口について『演出家としての溝口先生を尊敬しております』と言うだけだった。結局溝口の片思いに終わったようです」としている。ちなみにこの頃の田中と溝口の公私におけるやり取りは、その後先述の吉永小百合の主演映画『映画女優』で、菅原文太と共に演じられた[2]

このほか、慶應義塾大学野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。しかし結局、田中は清水監督との短い「試験結婚」を除き、その後は独身を貫いた。
鎌倉の自宅など

1936年、神奈川県鎌倉市の鎌倉山に3棟合わせて25部屋もある豪邸を建築し、マスコミなどから「絹代御殿」と称された[2]。当時の鎌倉山は高級住宅地で、田中のこの自宅の西隣りには近衛文麿の別邸、東隣りには藤原義江邸があった。1949年に岩田宙造の別宅(山椒洞)を購入して移り住むが、1954年には、帝国ホテルを居所とし[38]、「絹代御殿」を売却した[27]。ちなみに1950年1月に大バッシングに遭った時は、マスコミを逃れて心身を癒すため数ヶ月間をここで静かに過ごしたという[2]。その後1965年に鎌倉山に自宅を新築した[20]

田中の没後、小林正樹が「山椒洞を人手に渡したくない」として購入[39] し、料亭の?亭別館として建物を保存していたが、店舗閉店後に?亭の経営的理由で建物は解体された。その後みのもんたが自宅新築のため同敷地を購入し、現在(2021年)も暮らしているとのこと[注釈 21]
その他

動物好きとして知られ、自宅で犬や猫を飼っていた
[2]

“林長二郎”時代の長谷川一夫と何度も共演し、田中の遺品のアルバムには彼とのツーショット写真が多く残されているという[2]

楳図かずおの長編大作・洗礼に主人公が"田中絹子"と共演する部分がある。

受賞歴


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