田中絹代
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映画放送業界の約400人、ファン約3千人が参列[19][注釈 13]し、みな焼香台の上に100円玉を置いていったという[21]法名は迦陵院釋尼絹芳。

生前「死んだら、母の眠る下関で眠りたい」と希望していた[15]ことから、墓所は下関市の下関中央霊園にある。また、1979年(昭和54年)の三回忌では小林正樹によって、神奈川県鎌倉市円覚寺にも墓が建立されて分骨された[注釈 14]
没後

1985年(昭和60年)、小林により毎日映画コンクールに「田中絹代賞」が創設され、映画界の発展に貢献した女優に贈られることとなった。第1回受賞者は吉永小百合

1986年(昭和61年)、新藤兼人が『小説 田中絹代』を週刊読売に連載し、翌1987年(昭和62年)にこれを原作に、市川崑監督・吉永小百合主演で『映画女優』として映画化された[1]

1987年(昭和62年)、下関市民の間で本格的な顕彰活動が始まる[20]。下関などのファンにより毎年、命日である3月21日に「花嵐忌(からんき)」と名付けられた[注釈 15]市民墓参会が下関中央霊園(下関市井田)で開かれる。また同日に田中絹代ぶんか館で出演映画の上映が開催されるようになった[15]

2000年(平成12年)、『キネマ旬報』発表の「20世紀の映画スター」で、著名人選出日本人女優部門で第5位、読者選出日本人女優部門で第4位にランクインされた。また、2014年(平成26年)には同誌の「オールタイム・ベスト日本映画男優・女優」女優部門で第8位にランクインされている[23]

2009年(平成21年)、生誕100周年となるこの年に上映会をはじめとするさまざまな催しが行なわれた。松竹は、絹代生誕100周年を記念する「絹100%プロジェクト」[24] として、作品の上映会・DVD発売・CS放送ネット配信など各種イベントなどを開催。東京国立近代美術館フィルムセンターでは、9月4日から12月20日の約4か月間わたって企画展「生誕百年 映画女優 田中絹代」で遺品や関連資料を展示。同館は10月6日から11月15日11月17日から12月27日の約3か月にわたって大規模な特集上映「生誕百年 映画女優 田中絹代(1)、(2)」で出演作および監督作計97作品を上映した。第10回東京フィルメックス映画祭では、「ニッポン★モダン1930 ?もう一つの映画黄金期?」として田中絹代出演作を中心に特集上映し、特に生誕100年に当たる11月29日には「絹代DAY」として代表作を上映した。このほかにも、各地で特集上映会が催された。下関市立近代先人顕彰館
(田中絹代ぶんか館)

2010年(平成22年)、下関市の旧逓信省下関電信局電話課庁舎の建物に下関市立近代先人顕彰館(田中絹代ぶんか館)がオープン。セレモニーには松坂慶子奥田瑛二安倍晋三らが出席した。
人物・エピソード
生い立ち

1909年11月、田中家の庭で家族で歳末の餅つきをしていた所、ヤスが産気づいてその後田中を出産した。これにちなんで田中は、「絹餅のような白い肌になってほしい」との願いから“絹代”と名付けられた[2]。当時、母の実家・小林家は平家の末裔とされる[2]下関の大地主で、廻船問屋を営んでいた[25]。久米吉はそこの大番頭であったが、絹代が生まれた頃には呉服商を営み、貸し家を20軒も持っていた[4]

幼くして父を亡くした後、母は藤表製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していく[1]。田中が6歳の頃、母が共同出資していた実家の兄・小林保太郎の造船事業が次々と失敗したため両家とも倒産してしまう[4]。子供の頃は体が弱かったのか、1916年4月に下関市立王江尋常小学校に入学するが、直後にはしかに罹りほとんど出席しないまま1学期を終えてしまう[4]。また、同年9月には家族で大阪に移住するが、今度は肺炎に罹り1年半療養生活を送った[4]

さらに不幸は続き、田中の尋常小学校入学後、20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪[25]したことで一家は後ろ指を指されることになる。上記の田中が肺炎で療養生活をしていた頃に、華厳滝で投身自殺を図った次兄が肺炎で死亡[26]。加えて天王寺尋常小学校に編入後の授業中、田中が琵琶の教本を読んでいたのを女教師に見つかり罰で校庭に立たされ、級友に笑われた恥ずかしさと口惜しさから学校をやめてしまう[4]。その後「琵琶少女歌劇」時代を経て女優の道を歩むこととなる。ちなみに母・ヤスはその後1937年に死去し、下関に墓を建立した[27]
渡米と帰国後の大バッシング

1949年10月21日から日米親善使節として渡米し、約3ヶ月間の滞在中にハワイやハリウッドを巡り50回以上の公演[注釈 16]をこなした。ハワイでは各地で歓迎のレイを首にかけられ、戦時下で差別された日系人からもひときわ大きな熱烈歓迎を受けたという[2]ハリウッドでは映画スタジオなどを見学してベティ・デイヴィスシルヴィア・シドニーらと会い、ジョーン・クロフォードの撮影などを見学したり、当時の先端的なメイク法も教わった[注釈 17]

翌1950年(昭和25年)1月19日に帰国した[28]。出発時は豪華な古代ものを使った小袖姿[29] だったが、帰国時は茶と白のアフタヌーンドレスと毛皮のハーフコート、緑のサングラスハワイ土産のレイをまとって登場。報道陣らには「ハロー」と一声発し、銀座のパレードで投げキッスを連発[12][30]。この姿と行為で渡米を後援した毎日新聞社を除くメディアから「アメリカかぶれ」と叩かれ、一部のメディアからは「アメション女優」[注釈 18]などと形容された。

一方田中のファンたちも「アメリカに毒された」と猛反発し[2]、「銃後を守る気丈な日本女性」[31] のイメージを確立していた国民的女優の突然の変身に、敗戦に打ちひしがれ貧困の状態にあった国民は戸惑い、同時に憤りをかきたてることになり、田中はそれ以降自殺を考えるほどのスランプに陥った[28][32]。さらに1951年(昭和26年)には、映画雑誌『近代映画』のスター人気投票の女優部門で10位以内にも入らずトップスターの地位を失った[32]。当時田中は、知人に「ファンレターが1通も来なくなった」と漏らしていたという[33]
仕事に対する姿勢や周りからの評価

作品に情熱を込めて役作りをしてセリフも徹底的に暗記し、死後遺品となった台本には田中により細かく色々と書き込みがされていたという。先述の『私の履歴書』で田中は、「私は役をやる上で、監督から“痩せろ”と言われれば痩せ、“太れ”と言われれば太ることができます」と語っていたという。田中は、黒澤・小津・溝口・成瀬という4大映画監督がこぞって起用した数少ない女優の1人である[2]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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